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百人一首

【百人一首83番】世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる|意味・現代語訳と藤原俊成を解説

霧深き山谷と百人一首83番

世の中よ
道こそなけれ
思ひ入る
山の奥にも
鹿ぞ鳴くなる

――皇太后宮大夫俊成(藤原俊成)

百人一首83番は、

「世の中のつらさから逃れる道などない。思い詰めて山奥まで入ってきても、そこには悲しげな鹿の声が聞こえてくる」

という歌です。

作者は藤原俊成。百人一首97番の藤原定家の父であり、『千載和歌集』の撰者、さらに新古今時代の歌風へ大きな影響を与えた歌人です。嵯峨嵐山文華館でも、1114年生まれ、1204年没の歌人・歌学者で、『千載集』を編纂した人物として紹介されています。

この歌の出典は『千載和歌集』巻十七・雑歌中、1151番です。詞書には、

「述懐百首歌よみ侍りける時、鹿の歌とてよめる」

とあります。つまり、単に山中で偶然鹿の声を聞いて作った歌ではなく、「鹿」という題を、自分自身の人生への嘆き=述懐へ変換して作った歌なのです。

「世の中よ」の意味

この歌を一言でいうと、

「俗世を離れれば苦しみから逃げられると思ったのに、山奥にさえ悲しみはある。人はどこへ行っても、この世の苦しみから完全には逃れられない」

という歌です。

全日本かるた協会も、

「ああ世の中よ、ここから逃れる道はないものだ。思いつめて入ったこの山の奥でも鹿が鳴いているようだ」

という趣旨で現代語訳しています。

この歌は「述懐百首」の中で「鹿」の題を与えられて作られた作品です。

現代語訳

ああ、この世というものよ。つらさから逃れられる道などないのだ。思い詰めて分け入った山の奥深くにさえ、鹿が悲しげに鳴いているのが聞こえる。

「どこへ行っても苦しい」という強い悲観が前半にあり、その思いを後半の鹿の声がさらに深めています。

しかし、この歌の面白さは「人生はつらい」というだけではありません。

俊成は、

「鹿」という自然の題を、自分自身の人生の不遇や世の中への嘆きへ変換している

のです。

この歌は「鹿の歌」として詠まれた

『千載和歌集』の詞書は、

述懐百首歌よみ侍りける時、鹿の歌とてよめる

です。

現代語にすれば、

「述懐の百首歌を詠んだとき、『鹿』の歌として詠んだ」

となります。

普通なら「鹿」という題から、

秋の野
山
雌鹿を求める牡鹿
鹿の鳴き声

などを詠みそうです。

ところが俊成は、そこに、

「世の中から逃れる道がない」

という自分自身の嘆きを重ねました。

ここに、この歌の大きな特徴があります。

『俊成卿述懐百首』とは何か

国立歴史民俗博物館には「俊成卿述懐百首」の伝本が所蔵されています。

同館はこの作品について、俊成が保延6年(1140)ないしその翌年頃に詠んだ百首歌で、自分の官位が昇進しないことなど、述懐の思いを『堀河百首』の100の歌題に託して表現した作品と説明しています。

つまり俊成は、

「鹿」
「五月雨」
「夢」

など、本来はそれぞれ別の自然・季節・生活上の題を、

すべて自分の人生の嘆きへ引き寄せて詠んでいた

のです。

研究でも、12世紀に述懐百首が展開し、俊成が1140~1141年頃に『堀河百首』の題を述懐に寄せた百首を作ったことが指摘されています。

83番を理解するうえで、この成立事情は非常に重要です。

「述懐」は「昔を懐かしむ」という意味ではない

現代語で「述懐」というと、

「昔を懐かしく振り返る」

という印象があるかもしれません。

しかし古典和歌の「述懐」は、もっと広く、

自分の境遇、不満、不遇、願望、人生への思いなどを述べる歌

を指します。

83番でも、昔を回想しているわけではありません。

若い俊成が、

「自分はこの世でどう生きればよいのか」

という切実な感情を、鹿の題に託しているのです。

「世の中よ」――最初から世界そのものに呼びかける

歌は、

世の中よ

から始まります。

ここでの「よ」は詠嘆・呼びかけ。

「この世よ」

と、世界そのものに語りかけているような強い始まりです。

個人的に嫌な出来事があった、という歌ではありません。

自分が置かれている「世の中」そのものが問題なのです。

しかも、そこで一度意味が大きく切れます。

世の中よ
道こそなけれ

「ああ、この世には逃れる道がない」

と、最初の二句だけで一つの結論を出しています。

「道こそなけれ」の係り結び

「こそ」は係助詞です。

道こそなけれ

と、「こそ」を受けて「なし」が已然形「なけれ」となっています。

典型的な係り結びです。

「道がない」という内容を強く取り立て、

「本当に、逃れる方法などないのだ」

という響きを作っています。

ここでいう「道」は、文字どおりの道路だけではありません。

世の苦しみから逃れる方法・行き先

という意味です。

「思ひ入る」には二つの動きが重なる

三句目は、

思ひ入る

です。

「思ひ入る」には、

深く思い込む、思い詰める

という意味があります。

しかし、その直後は、

山の奥にも

です。

そのため、

深く「思ひ入る」
山へ「入る」

という二つの意味が重なって聞こえます。

注釈でも、「思ひ入る」と山に「入る」を重ねた表現として解説されています。

山へ深く入るほど、心も深く沈んでいく。

言葉の動きと人物の動きが重なっています。

なぜ「山の奥」へ行くのか

平安・鎌倉時代の文学では、

山に入る

ことは、ハイキングではありません。

俗世を離れ、出家・隠遁して仏道に生きる世界を連想させます。

全日本かるた協会もこの歌について、「山に入るのは俗世を捨てて仏道に専念するため」と解説しています。

だから歌の流れは、

世の中がつらい
↓
ならば世を離れよう
↓
山の奥へ入る
↓
しかしそこにも鹿の悲しい声がある

となります。

「山」が救いの場所にならないのです。

鹿はなぜ悲しいのか

古典和歌の鹿、とくに秋に鳴く牡鹿は、

雌鹿を求めて鳴く、寂しく哀れな存在

として繰り返し詠まれてきました。

嵯峨嵐山文華館も、83番について「鹿が妻恋しさに悲しげに鳴く声」が聞こえる歌として説明しています。

つまり山奥へ逃れても、

そこには何も感じない静寂があるわけではない。

鹿もまた何かを求め、鳴いている。

俊成が世間から逃れようとしているのに、山の中でも「情」に出会ってしまいます。

「鹿ぞ鳴くなる」の鹿は、見えていない

歌には、

鹿ぞ鳴くなる

とあります。

この「なる」は、断定の「なり」ではなく、一般に伝聞・推定の助動詞「なり」と解されます。

音や気配によって、

「鹿が鳴いているようだ」

と判断しているのです。

そして「ぞ」を受けて「なり」が連体形「なる」となっています。

つまり歌の主体は、

鹿を目で見ているとは限りません。

深い山のどこかから、

鹿の声だけが聞こえる。

この「見えない鹿」が、歌の孤独感をさらに強くしています。

AIの描写で表現するなら「鹿を大きく描かない」

この歌のトップ画像では、鹿を画面の中央に大きく描くのではなく、

深い山の奥から声だけが聞こえてくるような構図

で描写しています。

薄暗い山道。

人里の明かりはもう見えない。

若い貴族を思わせる人物が一人、山のさらに奥を見ています。

森の奥には霧。

鹿は木々の隙間に小さく影が見える程度、あるいは視認できるかどうかという位置に描いています。

重要なのは、

「世から逃れようと山へ入ったのに、そこにも悲しみを感じさせる声がある」

という心理です。

画像は、あくまで和歌の心理空間を視覚化した解釈です。

若い俊成の歌だった

藤原俊成というと、

『千載和歌集』の撰者
藤原定家の父
新古今歌壇の大御所

という晩年の姿が有名です。

しかし、この83番はかなり若い時代の作品です。

『俊成卿述懐百首』は保延6~7年、1140~1141年頃の作品とされます。俊成は1114年生まれなので、20代後半でした。

つまり83番は、

老いた大歌人が人生を達観して詠んだ歌ではありません。

まだ歌壇での地位を確立していく途中にあった若い俊成が、自分の不遇や人生への思いを詠んだ作品なのです。

この時、俊成はまだ出家していない

「山の奥へ入る」という歌なので、

俊成自身が出家して山にこもった時の歌だと思うかもしれません。

しかし、それも違います。

俊成が出家したのは、ずっと後の60代です。

藤原俊成は正三位皇太后宮大夫まで進み、その後63歳頃に出家し、法名を釈阿としました。

83番を詠んだ20代後半の俊成は、まだ現役の貴族です。

ですから、

思ひ入る山の奥

を、

「俊成が実際に出家して山へ入った」

という伝記上の出来事と結びつけることはできません。

ここでの山は、世俗から離れる文学的・宗教的な象徴空間として読むべきでしょう。

自然の題を「自分の人生」に変える技術

83番の独自性が最もよく見えるのはここです。

与えられた題は、

鹿。

ところが完成した歌の最初の二句は、

世の中よ
道こそなけれ

です。

鹿の姿はまったく出てきません。

まず人生そのものを嘆きます。

そこから山へ入り、最後の最後にようやく、

鹿ぞ鳴くなる

と「鹿」が現れます。

つまり俊成は、

鹿について詠むために自分の感情を添えたのではなく、自分の人生を詠むために「鹿」という題を使った

とも言える構造を作っています。

これこそ『俊成卿述懐百首』の面白さです。

「山へ逃げても苦しい」という発想には先行歌がある

全日本かるた協会は、83番と比較すべき古歌として、凡河内躬恒の『古今和歌集』の歌を紹介しています。

世を捨てて
山に入る人
山にても
なほ憂き時は
いづち行くらむ

意味は、

「俗世を捨てて山へ入った人は、その山でもなおつらいことがあったら、いったいどこへ行くのだろう」

というものです。

これに対して俊成の83番は、

道こそなけれ

と始まります。

つまり、

「どこへ行けばよいのか」
→「行くところなどない」

と答えているようにも読めます。

ただし、これを正式な本歌取りと断定するより、共通する和歌的発想を持つ重要な比較歌として見る方が安全です。

作者・藤原俊成とは

藤原俊成は1114年生まれ、1204年没。

父は藤原俊忠。

初名は顕広で、のちに俊成と改名しました。

藤原基俊らに和歌を学び、やがて平安末期を代表する歌人となります。後白河院の院宣によって『千載和歌集』を撰進しました。

家集には『長秋詠藻』があります。

国際日本文化研究センターの和歌データベースによれば、『長秋詠藻』上巻には久安百首とともに、保延6年頃の述懐百首も収められています。

つまり83番は、俊成の若い頃を知るためにも重要な一首です。

約半世紀後、自分で撰んだ『千載集』に入る

ここには面白い時間の流れがあります。

83番が作られたのは1140~1141年頃。

一方、俊成が後白河院の命を受けて『千載和歌集』を撰進したのは1188年です。

その差はおよそ半世紀。

若い頃、

「世の中には逃げ道がない」

と詠んでいた歌人が、のちに宮廷歌壇の最高峰へ上り、自分自身が撰者となった勅撰集に、この若き日の歌が1151番として収められました。

これは83番を読むうえで非常に興味深い事実です。

藤原清輔との関係――83番と84番

百人一首では、俊成の83番の直後に、

藤原清輔の84番、

ながらへば
またこのごろや
しのばれむ
憂しと見し世ぞ
今は恋しき

が置かれています。

84番についてはこちらで詳しく解説しています。

【百人一首84番】ながらへば またこのごろや しのばれむ|意味・現代語訳と藤原清輔を解説

この二人は、単に番号が隣り合うだけではありません。

清輔は六条藤家の中心人物。

俊成は、のちに藤原定家へつながる御子左家の中心人物です。

俊成の伝記でも、清輔と並び立ち、やがて歌壇指導者として大きな存在となったことが説明されています。

83番から84番へ進むことで、百人一首から平安末期の歌壇勢力まで見えてきます。

息子は百人一首97番・藤原定家

俊成の子が、藤原定家です。

百人一首97番、

来ぬ人を
まつほの浦の
夕なぎに
焼くや藻塩の
身もこがれつつ

の作者です。

【百人一首97番】来ぬ人を まつほの浦の夕なぎに|意味・現代語訳と藤原定家を解説

定家は父・俊成から続く御子左家の歌道を継ぎ、『新古今和歌集』の撰者となりました。

そして、小倉百人一首の撰者とされる人物でもあります。

つまり百人一首83番には、

父・俊成の歌を、息子・定家が百人一首に選んだ

という親子関係もあります。

寂蓮・式子内親王へ続く俊成の影響

俊成の影響は定家だけではありません。

百人一首87番の寂蓮は、俊成の養子となった歌人です。

【百人一首87番】村雨の 露もまだひぬ 槇の葉に|意味・現代語訳と寂蓮法師を解説

また、89番の式子内親王も俊成と深い文学的関係を持ち、俊成の歌論書『古来風体抄』は式子内親王の求めに応じて執筆されたとされています。

【百人一首89番】玉の緒よ 絶えなば絶えね|意味・現代語訳と式子内親王を解説

83番は一首の意味だけでなく、

藤原俊成
→ 藤原定家
→ 寂蓮・式子内親王・九条良経
→ 新古今歌壇

という文学史の大きな流れへの入口になります。

83番を読むときの一番大切なポイント

この歌を、

「世の中がつらいので山へ逃げたが、そこでも鹿が悲しく鳴いていた」

という情景だけで理解すると、重要な部分を見落とします。

これは、

「鹿」という題で作られた述懐歌

です。

しかも俊成は、『堀河百首』以来の100の題を使いながら、それぞれを自分自身の不遇や人生への嘆きへ変換する「述懐百首」を作っていました。

83番は、

鹿が主役なのではありません。

山も主役ではありません。

本当に描かれているのは、

「どこへ行っても自分自身と、この世の苦しみからは逃げられない」という心

です。

人里を離れれば静かになると思った。

さらに山の奥へ入った。

それでも、そこから鹿の悲しい声が聞こえてくる。

外の世界から離れようとすればするほど、逆に「悲しみ」がはっきり聞こえてしまう。

この逆説こそが、83番の魅力です。

そして、その歌を詠んだ若い俊成は、数十年後には『千載和歌集』を撰進し、さらに定家らの新古今時代へつながる和歌史の中心人物になります。

83番は、

若き日の不遇の歌と、後世の大歌人・俊成をつなぐ一首

として読むと、百人一首だけでは見えにくい文学史まで一気につながってきます。


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87番・寂蓮法師
俊成の養子となり、のちに新古今歌壇で活躍しました。
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89番・式子内親王
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参考資料・参照先

『千載和歌集』雑中1151番の本文・詞書については、「千載集秀歌選」および全日本かるた協会の解説を照合しました。
千載集秀歌選「世の中よ」
全日本かるた協会「百人一首83番」

『俊成卿述懐百首』の成立時期と内容については、国立歴史民俗博物館の収蔵資料情報を参照しました。
国立歴史民俗博物館「俊成卿述懐百首」

藤原俊成の経歴、『千載和歌集』撰進、御子左家・六条藤家との関係については、各種専門辞典を収録するコトバンクの藤原俊成項目を確認しました。
藤原俊成―コトバンク

百人一首83番の本文・作者・基本的な歌意は、嵯峨嵐山文華館でも確認しました。
嵯峨嵐山文華館「小倉百人一首83番」

『千載和歌集』の古典籍については、京都大学貴重資料デジタルアーカイブでも藤原俊成撰であることを確認できます。
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ「千載和歌集」

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