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壬申の乱から読み直す古代王権――天智・天武・三種の神器をめぐる日本古代史の大仮説⑤
1. 天智系と天武系は本当に「別々の勢力」だったのか
壬申の乱を考えるとき、私たちはつい天智系と天武系をはっきり対立する二つの勢力として見てしまいます。
天智天皇の近江朝は、白村江敗戦後の危機を背景に、百済系渡来人の知識や制度を取り込みながら、近江を拠点にした新しい国家を作ろうとした政権でした。一方、天武天皇は壬申の乱に勝利した後、飛鳥を中心に王権を再構成し、神話的正統性や神祇祭祀を強化していきました。
このように見ると、天智系は近江、百済系、制度国家、国際対応を重視した王権であり、天武系は飛鳥、伊勢、神話、祭祀、東国を重視した王権だったように見えます。
しかし、この対比は少し単純すぎるかもしれません。
なぜなら、近江と伊勢、そして丹波・丹後は、古代の交通や海洋ネットワークの中で、決して切り離された地域ではなかったからです。むしろ、琵琶湖、若狭湾、日本海、丹波・丹後、伊勢湾、東国を結ぶ広域の交通圏を考えると、天智系と天武系は完全に別々の世界に属していたのではなく、同じ大きなネットワークの中で異なる拠点を押さえた勢力だった可能性があります。
つまり、天智系と天武系は「まったく別の王朝」ではなく、「同じ海陸交通ネットワークをめぐる主導権争い」をしていたのではないでしょうか。
この視点に立つと、壬申の乱の見え方が変わります。
近江は天智系の拠点であり、伊勢は天武系の聖地的・軍事的ルートとして重要でした。丹波・丹後は、日本海側の海洋交通と畿内をつなぐ重要な地域でした。これらの地域は、それぞれ別々に存在していたのではなく、古代王権を支える広域ネットワークの結節点だったと考えられます。
本記事では、近江・丹波・丹後・伊勢をつなぐ古代ネットワークを手がかりに、天智系と天武系の関係をもう一度考えてみます。
2. 近江という交通の王権
天智天皇が近江大津宮へ都を移したことは、非常に大きな意味を持ちます。
近江は、単なる地方ではありません。琵琶湖を中心とする巨大な水上交通の要地です。琵琶湖を使えば、物資や人を効率よく動かすことができます。また、近江は畿内、北陸、日本海側、東国を結ぶ結節点でもありました。
飛鳥が古い王権の伝統を背負った内陸の政治中心であったとすれば、近江はより広域的で交通重視の政治拠点だったといえます。
天智天皇が近江に都を置いた背景には、白村江の戦い後の国防意識があったと考えられます。唐や新羅の脅威に備えるためには、軍事、交通、行政、防衛をより効率的に管理する必要がありました。そのため、近江という場所は非常に合理的でした。
また、近江は日本海側との接続にも重要です。琵琶湖の北側から若狭・越前方面へ抜けるルートを考えると、近江は日本海側の海洋交通と畿内を結ぶ中継地点になります。つまり、近江は内陸にありながら、海の世界とつながっていたのです。
ここで重要なのは、近江が「天智系だけの閉じた拠点」ではなかったという点です。
近江は、百済系渡来人の知識を活用した制度国家の拠点であると同時に、日本海側、丹波・丹後、若狭、越前、東国へとつながる広域交通ネットワークの中心でもありました。つまり、天智系の近江朝は、海と内陸を結ぶネットワークを強く意識した政権だったと考えられます。
この点では、天智系王権は決して内向きではありませんでした。むしろ、白村江後の国際情勢を受けて、東アジア世界と向き合うために、交通と制度を組み合わせた王権を作ろうとしたのです。
ただし、近江に王権の中心を置くことは、飛鳥を中心とする伝統的な政治勢力との緊張を生む可能性がありました。飛鳥の記憶、畿内豪族の利害、古い祭祀の中心から距離を取ることになるからです。
この近江の性格を理解することが、次に見る丹波・丹後、そして伊勢との関係を考える出発点になります。
3. 丹波・丹後は海と畿内をつなぐ回廊だった
丹波・丹後は、古代王権を考えるうえで非常に重要な地域です。
現在の地理感覚では、丹波や丹後は畿内の周辺地域として見られがちです。しかし古代においては、丹波・丹後は日本海側と畿内をつなぐ重要な回廊でした。
丹後半島は日本海に突き出し、海上交通の拠点となりうる場所です。そこから若狭、越前、但馬、出雲方面へつながり、さらに朝鮮半島との海の道にも接続します。一方、丹波を通れば、畿内へ入ることができます。つまり丹波・丹後は、海の情報、物資、人材を畿内へ運ぶための重要な通路だったのです。
この地域には、古くから強い地域勢力が存在したと考えられます。古墳文化や海洋性の伝承を考えても、丹波・丹後は単なる周辺地域ではなく、古代王権形成に関わる有力な勢力圏だった可能性があります。
ここで注目したいのが、丹波・丹後と「トヨ」の記憶です。
トヨという名前は、古代史の中でさまざまな形で現れます。卑弥呼の後継者とされる台与、豊受大神、豊国、豊の地名など、トヨには豊穣、海洋、女性的祭祀、外来性、王権の継承といった複数のイメージが重なっています。もちろん、これらをすべて同一の存在として扱うことはできません。しかし、丹波・丹後、伊勢、豊受大神というつながりを考えると、トヨ的な記憶が天武系王権の祭祀的正統性に関わっていた可能性はあります。
特に豊受大神は、伊勢神宮の外宮に祀られる神として重要です。そして豊受大神は丹波から伊勢へ迎えられたとする伝承があります。この伝承をそのまま史実として読む必要はありませんが、丹波・丹後と伊勢が祭祀的に結びつけられていたことは非常に興味深いです。
もし丹波・丹後が日本海側の海洋ネットワークの入口であり、伊勢が太平洋側・伊勢湾の海洋ネットワークの拠点だったとすれば、両者を結ぶ祭祀的な物語は、単なる神話ではなく、古代王権が海のネットワークを統合するための象徴だった可能性があります。
つまり、丹波・丹後は、日本海側から入る海洋勢力や外来文化の入口であり、伊勢はそれを天皇祭祀の中に組み込む出口だったのかもしれません。
この視点に立つと、丹波・丹後は天智系とも天武系とも関わりうる地域になります。
近江は日本海側への接続を持ち、丹波・丹後はその海洋ネットワークの重要な部分でした。一方、伊勢へつながる祭祀的な記憶は天武系王権と深く関係します。つまり、丹波・丹後は、天智系と天武系を分ける境界ではなく、むしろ両者をつなぐ中間地帯だった可能性があるのです。
4. 伊勢は天武系だけの聖地だったのか
壬申の乱において、伊勢は大海人皇子、すなわち後の天武天皇の行動と深く関わります。
大海人皇子は吉野を出た後、伊勢方面へ進み、美濃を押さえ、東国の兵力を結集して近江朝を破りました。このため、伊勢は天武系王権にとって非常に重要な地域だったと考えられます。
また、後の伊勢神宮が皇室祭祀の中心として大きな意味を持つことを考えると、天武・持統朝における伊勢の位置づけは特別です。天武系王権が王権の神話的正統性を強める中で、伊勢はその象徴的中心になっていった可能性があります。
しかし、伊勢を単に「天武系だけの聖地」と見るのは、やや狭い理解かもしれません。
伊勢は、地理的にも非常に重要な場所です。伊勢湾を通じて尾張、三河、東国へつながります。また、太平洋側の海上交通にも開かれています。つまり伊勢は、祭祀的な聖地であると同時に、東国と畿内を結ぶ交通の要地でもありました。
壬申の乱で大海人皇子が伊勢を通ったことは、祭祀的な意味だけでなく、軍事・交通上の意味も大きかったはずです。伊勢を押さえることは、東国の兵力を動員するためのルートを確保することでもありました。
さらに、伊勢は丹波・丹後との祭祀的関係を通じて、日本海側の海洋ネットワークとも象徴的につながります。豊受大神の伝承を考えると、伊勢は単なる太平洋側の聖地ではなく、日本海側のトヨ的な記憶を受け入れ、天皇祭祀の中に統合する場所だった可能性があります。
このように見ると、伊勢は天武系王権の拠点であると同時に、古代王権が海洋ネットワークを神話的に統合するための場所だったと考えられます。
ここで近江との関係が見えてきます。
近江は、琵琶湖を通じて日本海側、北陸、東国、畿内を結ぶ交通の拠点でした。伊勢は、伊勢湾を通じて東国、太平洋側、そして祭祀的には丹波・丹後へとつながる拠点でした。つまり、近江と伊勢は対立する場所であると同時に、どちらも広域ネットワークを押さえるための重要拠点だったのです。
天智系は近江を通じてネットワークを掌握しようとした。天武系は伊勢を通じて別の形でネットワークを掌握しようとした。
そう考えると、両者の対立は、完全に異なる世界の争いではなく、同じ広域交通圏の中でどの拠点を中心に王権を構成するかをめぐる争いだったように見えてきます。
5. 近江と伊勢は対立軸か、それとも連動軸か
天智系を近江、天武系を伊勢として整理すると、両者は対立するように見えます。
近江は天智天皇の都であり、百済系ネットワークと制度国家の象徴です。伊勢は天武天皇の壬申の乱における重要ルートであり、後の皇室祭祀の中心として、神話的正統性の象徴です。
しかし、交通の視点から見ると、近江と伊勢は必ずしも対立するだけの場所ではありません。
近江から美濃へ、美濃から尾張・伊勢へ、さらに東国へ。あるいは近江から若狭・越前へ、日本海側へ。こうしたルートを考えると、近江と伊勢は互いに切り離された地域ではなく、広域交通網の中で連動する地域でした。
壬申の乱においても、大海人皇子側は伊勢・美濃・東国のルートを使って近江朝を攻めます。これは、近江と伊勢が軍事的にも交通的にも近接していたことを示しています。天武側は、近江朝の中心を正面からではなく、周辺の交通軸を押さえることで攻略したともいえます。
この構図は、王権の主導権争いとして非常に興味深いものです。
天智系は近江を中心に、琵琶湖と日本海側への接続を活用しようとした。天武系は伊勢・美濃・東国を押さえることで、近江の交通網を外側から切り崩した。つまり、壬申の乱は、単なる軍事衝突ではなく、交通ネットワークの掌握をめぐる戦いでもあったのです。
そして、丹波・丹後を加えると、この構図はさらに広がります。
丹波・丹後は日本海側の海洋ネットワークと畿内を結ぶ地域です。近江は、その日本海側と畿内・東国をつなぐ内陸水運の拠点です。伊勢は、太平洋側と東国、そして祭祀的には丹波・丹後と結びつく拠点です。
この三つを結ぶと、日本海側、琵琶湖、畿内、伊勢湾、東国という大きな古代ネットワークが見えてきます。
天智系と天武系は、このネットワークを共有していました。ただし、どこを中心に置くかが違っていたのです。
天智系は近江を中心に、制度と国際対応を重視した。天武系は伊勢と飛鳥を中心に、祭祀と王統の正統性を重視した。丹波・丹後は、その両者をつなぐ海洋的・祭祀的中間地帯だった。
このように見ると、天智系と天武系は、対立していたと同時に、同じ王権ネットワークの別の表情だったといえます。
6. 天智系と天武系は「同じ海洋王権」の別分岐だったのか
ここまで見てきたように、近江・丹波・丹後・伊勢は、それぞれ孤立した地域ではありませんでした。むしろ、古代王権にとって重要な交通・祭祀・海洋ネットワークの結節点でした。
この視点に立つと、天智系と天武系の関係は、単純な敵対ではなくなります。
天智系は、近江を拠点に、百済系渡来人の制度知を活用し、白村江後の国際危機に対応しようとしました。これは、外来の知識を制度として取り込む王権構想でした。
一方、天武系は、飛鳥・伊勢を拠点に、神話的正統性と神祇祭祀を強めながら、伊勢・美濃・東国のルートを利用して王権を再構成しました。これは、外来性や広域ネットワークを祭祀的秩序へ組み込む王権構想でした。
両者は違っています。しかし、どちらも海を越えた交流や広域交通を前提にしていました。
天智系は百済系ネットワークを通じて、東アジアの制度知を取り込んだ。天武系は新羅系を含む海洋ネットワークや伊勢・東国の交通軸を利用して、神話的王権を強化した。どちらも閉じた内陸王権ではなく、海へ開かれた王権だったのです。
この意味で、天智系と天武系は「同じ海洋王権の別分岐」だった可能性があります。
両者は、応神以来の広域王権の遺産を共有していました。応神天皇には、渡来系文化、軍事力、河内王権、広域支配、八幡信仰など、多くの要素が重なります。天智系と天武系は、その応神的王権の異なる側面を強めた存在だったのかもしれません。
天智系は、応神的王権のうち、渡来系文化と制度国家化の面を強めた。天武系は、応神的王権のうち、祭祀的正統性、軍事的統合、広域ネットワークの面を強めた。
そのため、壬申の乱は「完全な別王朝同士の戦い」ではなく、「同じ王権ネットワーク内での主導権争い」と見ることができます。
これは、天智と天武が対立していなかったという意味ではありません。壬申の乱は実際に激しい内乱であり、近江朝は敗れました。しかし、その対立の背後には、完全な断絶ではなく、共有された基盤があったのではないでしょうか。
両者は同じ海洋王権の遺産を受け継ぎながら、異なる方法でそれを再構成しようとしたのです。
7. 対立ではなく、王権ネットワークの再編として見る
近江・丹波・丹後・伊勢をつなげて考えると、壬申の乱は単なる天智系と天武系の対立ではなく、古代王権ネットワークの再編として見えてきます。
天智天皇は、近江に都を置きました。そこには、琵琶湖を中心とする水運、日本海側への接続、東国・北陸・畿内を結ぶ広域支配の構想がありました。百済系渡来人の知識を取り込みながら、制度国家を作ろうとした天智系王権にとって、近江は理想的な拠点だったと考えられます。
一方、天武天皇は、壬申の乱において伊勢・美濃・東国のルートを利用しました。そして勝利後、飛鳥へ戻り、神話的正統性と神祇祭祀を中心に王権を再構成していきました。伊勢はその王権構想の中で、軍事的にも祭祀的にも重要な場所だったと考えられます。
丹波・丹後は、この二つの拠点をつなぐもう一つの鍵です。日本海側の海洋ネットワークと畿内を結び、豊受大神やトヨの記憶を通じて伊勢とも結びつくこの地域は、古代王権の海洋性を考えるうえで欠かせない場所です。
つまり、近江・丹波・丹後・伊勢は、天智系と天武系を分断する地域ではありません。むしろ、両者が共有し、奪い合い、再構成しようとした古代ネットワークの構成要素だったのです。
天智系と天武系は本当に対立していたのか。
答えは、おそらく「対立していた。しかし、完全に別々ではなかった」です。
両者は、皇位継承をめぐって激しく争いました。近江朝は敗れ、天武系王権が勝利しました。その意味では、壬申の乱は明確な政治的対立でした。
しかし、より深く見ると、両者は同じ広域王権ネットワークの中にいました。近江、丹波・丹後、伊勢、日本海、伊勢湾、東国という交通と祭祀のネットワークを、どのように王権の中心へ組み込むか。その方法をめぐって争ったのです。
天智系は、近江を中心に制度国家としてネットワークを統合しようとした。天武系は、飛鳥と伊勢を中心に祭祀国家としてネットワークを統合しようとした。
この違いこそが、壬申の乱の本質だったのかもしれません。
そして、この視点は次の記事へとつながります。
丹波・丹後と伊勢を結ぶ祭祀的な記憶。その中心に浮かび上がるのが、トヨという存在です。豊受大神、丹波から伊勢への神の移動、海洋的な女性祭祀、そして天武系王権の聖性。これらを考えることで、天武系王権がなぜ伊勢を重視したのか、そしてその背後にどのような古代の記憶があったのかが見えてくるはずです。
近江・丹波・丹後・伊勢を結ぶ古代ネットワークは、天智系と天武系の対立を、単なる勝者と敗者の物語から、古代日本の王権構造そのものを読み解く物語へと変えてくれます。
壬申の乱とは、王統の分裂であると同時に、広域ネットワークの再編でした。
そしてその再編の中から、天皇を中心とする古代国家が形づくられていったのです。

