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古代史

壬申の乱の背後にあった「海の王権」――瀬戸内・日本海・伊勢湾の勢力図

壬申の乱から読み直す古代王権――天智・天武・三種の神器をめぐる日本古代史の大仮説 ①壬申の乱は「王朝交代」だったのか――天智系と天武系をめぐる大きな仮説 https://www.learn.japan.by.i...

壬申の乱から読み直す古代王権――天智・天武・三種の神器をめぐる日本古代史の大仮説

1. 壬申の乱は本当に「内陸の戦い」だったのか

672年に起きた壬申の乱は、一般には天智天皇の子である大友皇子を中心とする近江朝と、大海人皇子、後の天武天皇との皇位継承争いとして説明されます。

戦いの舞台を見ても、吉野、伊勢、美濃、不破、近江といった地名が中心になります。そのため、壬申の乱は畿内から東国にかけての内陸交通をめぐる戦争として見られがちです。

もちろん、それは間違いではありません。大海人皇子が吉野を出て伊勢・美濃方面へ進み、東国の兵力を動員し、不破を押さえ、近江朝を破ったことは、壬申の乱の軍事的展開を考えるうえで非常に重要です。

しかし、古代王権を考えるとき、内陸だけを見ていては全体像が見えません。

なぜなら、古代の政治権力は海と深く結びついていたからです。人、物、武器、馬、鉄、塩、米、祭祀具、技術者、渡来人、外交情報。これらは陸路だけでなく、海路を通じて広く動いていました。海上交通を押さえることは、単に交易を押さえることではなく、王権の生命線を押さえることでもありました。

この視点に立つと、壬申の乱はまったく違って見えてきます。

表面上は、近江朝と大海人皇子の皇位継承戦争です。しかしその背後には、瀬戸内海、日本海、伊勢湾という三つの海域をめぐる勢力図の変化があったのではないでしょうか。

天智系の近江朝は、白村江敗戦後の国際危機を背景に、百済系渡来人の知識を取り込みながら、近江を拠点に国家を再編しようとしました。その近江は、琵琶湖を通じて北陸・日本海側・東国・畿内を結ぶ交通の要地でした。

一方、天武系王権は、伊勢・美濃・東国のルートを利用して勝利し、後に伊勢を皇室祭祀の中心として重視していきます。伊勢は伊勢湾を通じて、尾張・三河・東国、さらに太平洋側の海上交通につながる場所です。

さらに、丹波・丹後、日本海側の海洋ネットワーク、豊受大神やトヨの記憶を考えると、天武系王権もまた、海と無関係な内陸王権ではありませんでした。

つまり壬申の乱とは、単なる内陸の軍事衝突ではなく、瀬戸内・日本海・伊勢湾を結ぶ「海の王権」の再編だった可能性があるのです。

2. 瀬戸内海――ヤマト王権を支えた西の大動脈

まず見るべきは、瀬戸内海です。

瀬戸内海は、古代ヤマト王権にとって最も重要な交通路の一つでした。畿内から西国、九州、朝鮮半島へ向かう際、瀬戸内海は大動脈になります。陸路よりも大量の物資を運びやすく、港や島々を結ぶことで、人や情報も移動しやすい。古代の政治において、瀬戸内海を押さえることは、西方外交と軍事を押さえることに等しかったといえます。

百済との関係を考えるうえでも、瀬戸内海は重要です。

倭国と百済の交流は、北部九州や瀬戸内海を通じて畿内へ入ってきました。仏教、文字、技術、工人、僧侶、外交使節、軍事的情報など、多くのものがこの海の道を通ってヤマト王権に届いたと考えられます。

天智天皇の時代、白村江の戦いはこの瀬戸内海の重要性を改めて浮かび上がらせました。倭国は百済復興を支援するため、海を越えて朝鮮半島へ軍を送りました。その出兵と敗北は、瀬戸内海が単なる国内交通路ではなく、東アジア世界へ開かれた軍事・外交ルートだったことを示しています。

白村江で敗れた後、倭国は大きな危機感を抱きます。唐・新羅の脅威に備えるため、防衛体制を整え、山城を築き、国家制度を整備していきます。この動きの中で、天智天皇は百済系渡来人の知識を取り込み、近江へ都を移しました。

この流れを見ると、天智系王権は瀬戸内海と百済系ネットワークの延長線上にあったと考えることができます。

ただし、天智が近江に都を置いたことは、瀬戸内海だけに依存しない国家構想を示していた可能性もあります。白村江敗戦によって、瀬戸内海から朝鮮半島へ向かう西方ルートは危険なものになりました。そのため、天智政権は近江という内陸交通の拠点を利用し、日本海側や東国を含む複数のルートを押さえようとしたのかもしれません。

つまり、天智系王権は、瀬戸内海を基盤とする百済系・西方ネットワークを受け継ぎながら、それを近江という新しい広域交通拠点へ再編しようとした政権だったのではないでしょうか。

ここに、壬申の乱の背景が見えてきます。

瀬戸内海を中心とする旧来の西方外交の時代は、白村江の敗北によって大きく揺らぎました。その後、倭国はどの海域を重視し、どのネットワークを中心に国家を作るのかを選ばなければならなくなったのです。

3. 日本海――丹波・丹後から近江へつながるもう一つの海

次に注目したいのが、日本海です。

古代史を考えるとき、瀬戸内海が西方外交の大動脈として重視される一方で、日本海側のネットワークは見落とされがちです。しかし、日本海は古代王権にとってきわめて重要な海でした。

日本海側には、出雲、丹波・丹後、但馬、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後といった地域が並びます。これらの地域は、海上交通を通じて互いに結びつき、さらに朝鮮半島や大陸方面ともつながる可能性を持っていました。

とくに丹波・丹後は、日本海側と畿内をつなぐ回廊として重要です。

丹後半島は日本海に突き出し、海洋交通の拠点になりうる場所です。丹後から丹波を通れば畿内へ入り、さらに近江や飛鳥へ接続することができます。つまり、日本海から入ってきた人、物、技術、信仰、情報は、丹波・丹後を通じてヤマト王権へ流れ込むことができました。

ここで、前回の記事で考えた「トヨの記憶」が関わってきます。

豊受大神は丹波から伊勢へ迎えられたとされます。この伝承をそのまま史実として読む必要はありませんが、丹波・丹後の海洋的・豊穣的な祭祀の記憶が、伊勢の皇室祭祀へ組み込まれた可能性を示すものとして非常に興味深いものです。

日本海側のネットワークは、単なる交易路ではありませんでした。そこには、祭祀、神話、渡来系文化、鉄や玉などの物資、海人集団の活動が重なっていたと考えられます。出雲の神話的存在感、丹波・丹後のトヨ的記憶、若狭・越前を通じた近江との接続。これらをつなげると、古代王権のもう一つの基盤が見えてきます。

近江は、この日本海側ネットワークと深く関係します。

琵琶湖の北側から若狭・越前へ抜けるルートを考えると、近江は日本海と畿内を結ぶ中継地点になります。天智天皇が近江に都を置いたことは、単に東国や畿内を管理するためだけではなく、日本海側への接続を意識したものだった可能性があります。

この意味で、近江朝は瀬戸内海と日本海の両方を見据えた政権だったかもしれません。

百済系ネットワークを通じた西方の知識を取り込みながら、日本海側や東国へも広がる交通網を押さえる。近江は、そのような広域国家構想の中心にふさわしい場所でした。

しかし、日本海側のネットワークは、天智系だけのものではありません。

丹波・丹後のトヨ的な記憶が伊勢と結びつくなら、日本海側の祭祀的・海洋的な力は、天武系王権にも取り込まれていきます。つまり、日本海は天智系と天武系のどちらか一方に属する海ではなく、両者が共有し、争い、再構成しようとした海だったのです。

4. 伊勢湾――天武系王権を支えた東への海

三つ目の海域が、伊勢湾です。

伊勢湾は、壬申の乱における天武系王権を考えるうえで非常に重要です。

大海人皇子は吉野を出た後、伊勢方面へ進み、美濃を押さえ、東国の兵力を結集して近江朝を破りました。この行動は、単なる逃避や偶然の進軍ではなく、伊勢・美濃・東国を結ぶ交通軸を戦略的に利用したものと考えられます。

伊勢は、地理的にも祭祀的にも重要な場所です。

地理的には、伊勢湾を通じて尾張・三河・東国へつながります。海上交通と陸上交通が交わる場所であり、畿内から東国へ向かううえで重要な結節点でした。東国の兵力を動員するには、伊勢・美濃のルートを押さえることが不可欠だったと考えられます。

祭祀的には、伊勢は後に皇室祭祀の中心となります。天照大神を祀る内宮、豊受大神を祀る外宮を中心に、伊勢神宮は天皇王権の神話的正統性を支える場所になります。

壬申の乱において伊勢が大海人皇子の進軍ルートにあったことと、後に伊勢が天武・持統系王権にとって重要な聖地となることは、別々の問題ではないかもしれません。

天武系王権にとって、伊勢は東国動員の入口であり、同時に王権の聖性を支える場所でもありました。

さらに伊勢湾は、太平洋側の海洋ネットワークにも開かれています。尾張、三河、遠江、駿河、さらに東国沿岸へと続く海の道を考えると、伊勢は東へ向かう海上交通の拠点でもありました。

天武系が壬申の乱で勝利した背景には、東国の軍事力があります。その東国と畿内を結ぶうえで、伊勢湾は重要な役割を果たした可能性があります。

ここで、日本海側との関係も見えてきます。

丹波・丹後から伊勢へ豊受大神が移るという伝承を考えると、伊勢は単に太平洋側の拠点ではありません。日本海側の海洋的・豊穣的な記憶を受け入れ、天皇祭祀の中に統合する場所でもありました。

つまり伊勢湾は、東国への軍事・交通ルートであると同時に、日本海側の祭祀的記憶を受け入れる聖地でもあったのです。

このように見ると、天武系王権は、伊勢湾を通じて東国を動員し、伊勢神宮を通じて祭祀的正統性を強め、日本海側のトヨ的記憶を取り込んだ王権だったと考えることができます。

天武系王権は、内陸の飛鳥に戻った王権でありながら、実は伊勢湾を通じて海へ開かれた王権でもあったのです。

5. 瀬戸内・日本海・伊勢湾をめぐる三つの勢力図

ここまで、瀬戸内海、日本海、伊勢湾という三つの海域を見てきました。

この三つの海は、それぞれ異なる性格を持っています。

瀬戸内海は、畿内と九州、朝鮮半島を結ぶ西方外交の大動脈でした。百済系ネットワーク、仏教、文字、技術、外交、軍事遠征は、この海の道と深く関わっていました。天智系王権は、この瀬戸内海を通じた百済系ネットワークの遺産を強く受け継いでいたと考えられます。

日本海は、出雲、丹波・丹後、若狭、越前、北陸を結ぶもう一つの海洋世界でした。そこには、海人集団、出雲的な神話、トヨ的な祭祀、渡来系文化、鉄や玉などの物資の流れがあった可能性があります。近江は、日本海側と畿内を結ぶ重要な中継地点でした。

伊勢湾は、畿内と東国を結ぶ東方の海でした。壬申の乱においては、天武側が伊勢・美濃・東国ルートを利用して勝利しました。後に伊勢は皇室祭祀の中心となり、天武系王権の聖性を支える場所となっていきます。

この三つの海域を一つの地図として重ねると、壬申の乱の背景にあった勢力図が見えてきます。

天智系は、瀬戸内海を通じた百済系ネットワークと、近江を通じた日本海・東国への接続を重視した。天武系は、伊勢湾を通じた東国動員と、丹波・丹後を通じた日本海的祭祀の記憶を取り込み、飛鳥・伊勢を中心に王権を再構成した。

つまり、天智系と天武系は、単に「近江対飛鳥」だったわけではありません。

その背後には、瀬戸内海、日本海、伊勢湾という三つの海の重なりがありました。どの海を中心に据えるのか、どの海のネットワークを国家に組み込むのか。その違いが、天智系と天武系の王権構想の違いとして現れたのではないでしょうか。

もちろん、これを単純に「天智=瀬戸内、天武=伊勢湾」と分けることはできません。古代のネットワークはもっと複雑であり、人や物は複数のルートを行き来していました。

しかし、大きな傾向として、天智系は百済系・瀬戸内系・近江系の制度国家構想を持ち、天武系は伊勢湾・東国・日本海祭祀を取り込む祭祀国家構想を持っていたと見ることは可能です。

壬申の乱とは、この三つの海域をどう統合するかをめぐる戦いだったのかもしれません。

6. 海の王権としての天智系と天武系

ここで改めて、天智系と天武系を「海の王権」として見てみます。

天智系王権は、百済系渡来人の知識を重視しました。白村江の敗北後、百済の王族・貴族・官人・技術者・僧侶などが倭国へ渡り、国家制度や防衛体制の整備に関わったと考えられます。

この百済系ネットワークは、瀬戸内海を通じて畿内へつながる西方海洋ネットワークの一部でした。天智天皇は、その知識を活用しながら、近江を拠点に制度国家を作ろうとしました。

つまり、天智系王権は、海を越えた知識を制度として取り込む王権でした。

一方、天武系王権もまた、海と深く関わっていました。

天武天皇は、伊勢・美濃・東国ルートを利用して壬申の乱に勝利しました。伊勢湾は東国への海と陸の結節点であり、後に伊勢神宮は皇室祭祀の中心となります。さらに、丹波・丹後から伊勢へ豊受大神が移るという伝承を考えると、天武系王権は日本海側のトヨ的な祭祀の記憶も取り込んでいた可能性があります。

つまり、天武系王権は、海を越えた祭祀や地域の記憶を、天皇の聖性へ統合する王権でした。

この違いは非常に重要です。

天智系は、海の知識を制度へ変えた。天武系は、海の記憶を祭祀へ変えた。

天智系は、百済系の制度知を通じて、外からの危機に対応する国家を作ろうとした。天武系は、伊勢・東国・日本海的祭祀を通じて、内側から統合される国家を作ろうとした。

どちらも海を必要としていました。しかし、海の力をどう使うかが違っていたのです。

壬申の乱後、天武系王権は天智系の制度国家化を完全に否定したわけではありません。むしろ、天智が進めた中央集権化の流れを受け継ぎながら、それを自らの祭祀的正統性のもとで再編しました。

その結果、古代日本の国家は、制度と祭祀の両方を備えた王権として形成されていきます。

ここに、壬申の乱の本当の意味があります。

壬申の乱は、海の王権同士の完全な断絶ではありませんでした。むしろ、天智系と天武系という二つの海洋王権構想が衝突し、その後に統合された出来事だったのです。

7. 壬申の乱を海から読み直す

壬申の乱を海から読み直すと、これまでとは違う古代史の姿が見えてきます。

従来、壬申の乱は、天智天皇の後継をめぐる近江朝と大海人皇子の戦いとして語られてきました。もちろん、それは歴史の基本です。しかし、その背後には、瀬戸内海、日本海、伊勢湾をめぐる海洋ネットワークの再編があったと考えることができます。

瀬戸内海は、百済系ネットワークと西方外交を支えました。白村江の敗北後、その意味は大きく変わります。天智系王権は、その百済系の知識を取り込み、近江を拠点に新しい国家を作ろうとしました。

日本海は、出雲、丹波・丹後、若狭、越前、近江をつなぐもう一つの海でした。そこには、海洋的な祭祀、トヨの記憶、渡来系文化、古い地域王権の力がありました。この日本海的な記憶は、伊勢の豊受大神を通じて天武系王権にも取り込まれていきます。

伊勢湾は、天武系王権の勝利を支えた東への海でした。伊勢・美濃・東国ルートは、壬申の乱の軍事的勝利に不可欠であり、伊勢神宮はその後、天皇王権の聖性を支える中心となっていきました。

この三つの海を考えることで、壬申の乱は単なる内乱ではなくなります。

それは、古代日本がどの海を通じて外とつながり、どの地域ネットワークを王権の中心に組み込み、どの祭祀によって正統性を語るのかを決定した事件だったのです。

天智系と天武系は、どちらも海の王権でした。

ただし、天智系は制度国家として海を利用し、天武系は祭祀国家として海を統合した。この違いが、壬申の乱の背後にあった大きな構図だったのではないでしょうか。

そして壬申の乱後、天武系王権は天智系の遺産を取り込みます。百済系の制度知も、近江朝の国家構想も、完全には消えませんでした。それらは天武・持統朝の神話的・祭祀的王権の中に再配置され、後の律令国家へとつながっていきます。

つまり、壬申の乱は「海の王権」の分裂であると同時に、その再統合でもありました。

瀬戸内海の百済系ネットワーク、日本海の丹波丹後・出雲的ネットワーク、伊勢湾の東国・祭祀ネットワーク。これらが衝突し、組み替えられ、天皇を中心とする古代国家の中に統合されていった。

そう考えると、壬申の乱は戦場だけで起きた事件ではありません。

それは、海の上で動いていた人々、船、神、物資、技術、記憶が、古代王権の形を変えていく大きな転換点だったのです。

そして、この視点は次の記事へとつながります。

海の王権を支えた象徴とは何だったのか。王位継承において、なぜ勾玉・剣・鏡という三種の神器が重要になったのか。三種の神器は、単なる神話的宝物ではなく、複数の豪族・地域・海洋ネットワークの合意を示す象徴だったのではないか。

次に考えるべきテーマは、「三種の神器はいつ成立したのか」です。

壬申の乱の背後にあった海の王権を見た後で、三種の神器を見直すと、それは単なる皇室の宝物ではなく、古代王権を構成した複数勢力の合意と統合の記憶として見えてくるかもしれません。

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