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壬申の乱から読み直す古代王権――天智・天武・三種の神器をめぐる日本古代史の大仮説③
1. 天武天皇の勝利をどう見るか
672年の壬申の乱は、天智天皇の子である大友皇子を中心とする近江朝と、大海人皇子、すなわち後の天武天皇とのあいだで起きた内乱です。
一般的には、天智天皇の死後に起きた皇位継承争いとして説明されます。しかし、この戦いを単なる「叔父と甥の争い」として見るだけでは、壬申の乱の持つ大きな意味を十分に捉えきれません。
なぜなら、壬申の乱の前後で、古代王権の性格が大きく変わるからです。天智天皇の近江朝は、白村江の敗戦後の危機を背景に、百済系渡来人の知識や制度を活用しながら、近江を拠点とする中央集権的な国家を作ろうとしていたように見えます。
それに対して、壬申の乱に勝利した天武天皇は、飛鳥を中心に王権を再構成しました。天皇号、八色の姓、皇親政治、神祇祭祀の整備、歴史編纂へとつながる動きなど、天武・持統朝には、王権を神話的・祭祀的に統合し直そうとする強い意志が見られます。
ここで一つの仮説として考えたいのが、天武天皇の勝利の背景には、単に飛鳥の伝統勢力や東国の軍事力だけではなく、もう一つの国際的・海洋的ネットワークがあったのではないか、という点です。
前回の記事では、天智系王権を「百済系ネットワークを重視した近江朝」として考えました。では、その対抗軸としての天武系には、どのようなネットワークがあったのでしょうか。
本記事では、天武天皇と新羅系ネットワークの関係を一つの仮説として考えてみます。
もちろん、天武天皇が直接「新羅系勢力の代表者」であったと断定することはできません。史料からそこまで明確に言えるわけではありません。しかし、壬申の乱の背景を、白村江後の東アジア情勢、百済と新羅の対立、伊勢・東国・日本海側の交通網、そして飛鳥王権の再編という視点から見ると、天武系王権が新羅的な外交環境や海洋ネットワークと一定の親和性を持っていた可能性は考察に値します。
つまり、天智系が百済系ネットワークを重視した政権だったとすれば、天武系はそれとは異なる海の道、すなわち新羅系を含む広域ネットワークに開かれていたのではないか、ということです。
2. 白村江後の東アジアと「百済後」の世界
天武天皇と新羅系ネットワークを考えるには、まず白村江の戦い後の東アジア情勢を見る必要があります。
663年、倭国は百済復興を支援するために朝鮮半島へ出兵しました。しかし、唐・新羅連合軍に敗れ、百済復興の可能性は大きく失われます。この敗北は、倭国にとって単なる軍事的敗北ではありませんでした。倭国が長く関係を深めてきた百済という国が消滅し、朝鮮半島の政治秩序が大きく変わったことを意味していました。
天智天皇の政権は、この危機に強く反応しました。百済系渡来人を受け入れ、防衛体制を整え、近江へ都を移し、唐・新羅の圧力に備える国家体制を作ろうとしたと考えられます。これは、百済を失った後の倭国が、百済系の知識と人材を取り込みながら、外圧に対応しようとした動きでした。
しかし、白村江後の現実を別の角度から見ることもできます。
百済が滅亡し、新羅が朝鮮半島で大きく勢力を伸ばした以上、倭国がいつまでも百済復興の立場に立ち続けることは困難でした。東アジアの新しい秩序に対応するには、新羅との関係をどうするかが避けて通れない問題になります。
天智系王権が百済系ネットワークを重視し、唐・新羅への警戒を強めたとすれば、天武系王権は、より現実的に「百済後の世界」に適応しようとした可能性があります。
ここでいう新羅系ネットワークとは、必ずしも新羅国家そのものの政治勢力を意味するわけではありません。むしろ、朝鮮半島南東部、日本海側、北部九州、出雲、丹波・丹後、若狭、越前、近江、伊勢、東国へとつながる、人・物・技術・情報の流れを含む広い意味での海洋ネットワークです。
新羅は朝鮮半島の南東部に基盤を持つ国でした。その地理的性格を考えると、日本海側や北部九州との海上交通は非常に重要です。もし天武系が、百済系とは異なる海の道を背景にしていたとすれば、それは天智系の近江朝とは違った外交的・地域的基盤を持っていたことになります。
壬申の乱は、百済を失った後の倭国が、どのような東アジア認識に基づいて国家を作るのかをめぐる争いでもあったのかもしれません。
天智系は、百済系の記憶と知識を取り込みながら、外圧に備える国家を作ろうとした。天武系は、百済後の新しい国際秩序を見据え、別の海洋ネットワークを利用しながら、王権を再構成しようとした。
この対比は、天智と天武の違いを考えるうえで非常に重要です。
3. 天武系王権と飛鳥への回帰
天武天皇の王権を考えるうえで、まず注目すべきなのは飛鳥への回帰です。
天智天皇は飛鳥を離れ、近江大津宮へ都を移しました。近江は琵琶湖を中心とする交通の要地であり、東国、日本海側、北陸、畿内を結ぶ広域支配に適した場所でした。そこには、百済系渡来人の知識を取り入れながら、制度国家を作ろうとする天智政権の意志が表れていたと考えられます。
一方、天武天皇は、壬申の乱に勝利した後、王権の中心を飛鳥へ戻します。
これは、単なる懐古的な選択ではありません。飛鳥は、推古朝以来の王権の記憶が重なる場所です。蘇我氏、仏教文化、畿内豪族、古い祭祀、王権の伝統が積み重なった土地でした。天武が飛鳥を基盤としたことは、王権の正統性を再びヤマトの中心へ結びつける意味を持っていたと考えられます。
ただし、ここで重要なのは、天武系王権が単に「古い飛鳥へ戻った」わけではないという点です。
天武天皇は、飛鳥の伝統を利用しながら、むしろ新しい王権を作りました。天皇号の確立、八色の姓、皇親政治、神祇祭祀の整備などは、古い豪族連合をそのまま復活させる動きではありません。むしろ、古い王権の記憶を利用しながら、天皇を中心とする新しい秩序を作る動きでした。
この意味で、天武の飛鳥回帰は「復古」ではなく「再編」だったと見るべきです。
そして、この再編の背後に、百済系とは異なる渡来系・海洋系ネットワークがあった可能性があります。天武系王権は、飛鳥の内陸的な伝統に閉じこもった政権ではありません。壬申の乱の経路を見ても、吉野、伊勢、美濃、東国という広い地域が関わっています。さらに伊勢湾、日本海側、東国への交通を考えると、天武の王権はかなり広域的なネットワークを背景としていた可能性があります。
つまり、天武系王権は、飛鳥という伝統的中心に戻りながらも、その背後では伊勢・東国・日本海側、そして新羅系を含む海洋交通の世界とつながっていたのではないでしょうか。
この点が、天武天皇を考えるうえで非常に重要です。
飛鳥への回帰は、閉鎖的な内向きの選択ではなかった。むしろ、飛鳥の神話的正統性を中心に置きながら、広域の海洋・軍事・地域ネットワークを統合するための選択だった可能性があるのです。
4. 伊勢・美濃・東国――壬申の乱を支えたルート
壬申の乱において、大海人皇子の動きは非常に重要です。
大海人皇子は、天智天皇の死後、吉野に退きます。そして挙兵すると、伊勢方面へ向かい、美濃を押さえ、東国の兵力を結集して近江朝と戦いました。この経路は、単なる逃避や偶然の移動ではなく、あらかじめ支持基盤や交通ルートを見据えた行動だった可能性があります。
伊勢は、天武系王権を考えるうえで非常に重要な地域です。後の時代に伊勢神宮が皇室祭祀の中心として重視されることを考えると、天武・持統朝における伊勢の位置づけは見逃せません。壬申の乱の時点で、伊勢がすでに大海人皇子にとって重要な通過点であったことは、天武系王権と伊勢の関係を考える手がかりになります。
伊勢は、畿内と東国を結ぶ陸上・海上交通の要地でした。伊勢湾を通じて尾張・三河・東国へつながり、さらに海上交通によって広い地域と結びつきます。天武側が伊勢を経て美濃・東国へ向かったことは、天武系がこの交通軸を重視していたことを示しているように見えます。
美濃もまた重要です。美濃は東山道の要衝であり、畿内と東国をつなぐ軍事・交通上の拠点でした。壬申の乱で美濃を押さえたことは、天武側が東国の兵力を動員するうえで決定的な意味を持ちました。
この伊勢・美濃・東国ルートを、新羅系ネットワークと結びつけて考えると、さらに面白い視点が見えてきます。
新羅系の海洋ネットワークは、朝鮮半島南東部から日本海側、北部九州、出雲、丹波・丹後、若狭、越前などへつながるルートを含んでいた可能性があります。そして、これらの日本海側のルートは、琵琶湖・近江・美濃・尾張・伊勢へと接続しうるものです。
つまり、伊勢・美濃・東国ルートは、単なる内陸の軍事ルートではなく、日本海側や伊勢湾岸の海洋ネットワークとも結びつく広域交通網の一部だった可能性があります。
天武がこのルートを使って勝利したことは、天武系王権が近江朝とは別の広域ネットワークを動員できたことを示しているのかもしれません。
天智系の近江朝は、琵琶湖を中心とする交通拠点を持っていました。しかし、天武系はそれに対して、伊勢・美濃・東国というルートを押さえることで、近江朝を包囲するような形で軍事的優位を築きました。
この構図は、非常に象徴的です。
近江朝が琵琶湖を中心とした制度国家の拠点だったとすれば、天武系は伊勢・美濃・東国を結ぶもう一つの交通軸を利用して、それを打ち破ったのです。
5. 新羅系ネットワークとは何だったのか
では、ここでいう「新羅系ネットワーク」とは、具体的に何を指すのでしょうか。
まず明確にしておきたいのは、これは「天武天皇が新羅の手先だった」という意味ではまったくありません。そのような単純な話ではありません。
古代の列島と朝鮮半島の関係は、現代の国境や民族意識とは大きく異なっていました。人々は海を越えて移動し、技術者、商人、僧侶、外交使節、亡命者、婚姻関係を持つ人々などが広域に活動していました。百済系、新羅系、高句麗系、伽耶系といった区分も、現代的な国籍というより、文化的・政治的・地域的な背景を示すものとして考えるべきです。
新羅系ネットワークとは、新羅国家そのものの影響だけではなく、新羅と関係の深い海域・港・氏族・技術・交易・情報の流れを含むものです。
朝鮮半島南東部から対馬・壱岐・北部九州へ向かうルート、日本海側へ向かうルート、出雲・丹波・丹後・若狭・越前へつながるルート、そしてそこから近江・尾張・伊勢・東国へ接続するルート。こうした複数の海の道が、古代の列島社会を支えていました。
天智系が百済系の知識人や亡命貴族を重視したとすれば、天武系はより広い意味での海洋的・地域的ネットワークを背景にしていた可能性があります。その中に、新羅系の人々や新羅的な文化・情報が含まれていたとしても不思議ではありません。
また、新羅は白村江後の東アジアで勝者側に立った存在です。倭国が新羅と敵対し続けるだけでは、国際関係を安定させることは困難でした。天武系王権が、百済復興から一定の距離を置き、より現実的な外交感覚を持っていた可能性もあります。
この点で、天武系王権は「反百済」だったというより、「百済後の世界に適応する王権」だったと見ることができます。
天智系は、百済系ネットワークを通じて唐・新羅に備える国家を作ろうとしました。天武系は、その危機意識を受け継ぎながらも、百済滅亡後の新しい国際秩序のなかで、王権を再構成しようとしたのかもしれません。
もしそうであれば、天武天皇と新羅系ネットワークの関係は、単なる外交関係ではなく、古代日本が東アジア世界の変化にどう適応したかを示す重要なテーマになります。
6. 天武系王権の聖性と海洋性
天武天皇の王権を語るとき、しばしば注目されるのは神話的・祭祀的な性格です。
天武・持統朝を通じて、天皇を中心とする国家の理念が強化されていきます。神祇祭祀の整備、皇親政治、歴史編纂、天皇号の確立などは、王権の聖性を高める動きとして見ることができます。
一見すると、このような祭祀的王権と、新羅系を含む海洋ネットワークは結びつきにくいように思えます。しかし、古代の王権において、聖性と海洋性は必ずしも対立しません。
むしろ、海の道を通じて入ってくる外来の知識、祭祀、技術、神話、宝物は、王権の聖性を強化する重要な要素になりえます。鏡、玉、剣、儀礼具、仏教文化、暦、占い、文字、音楽、衣服、建築技術などは、いずれも海を越えた交流のなかで王権の権威を高める役割を果たしました。
天武系王権が神話的正統性を強めたことは、内向きの閉鎖性を意味するのではありません。むしろ、広域の海洋ネットワークから入ってきた文化や技術を、ヤマト王権の祭祀秩序のなかに組み込み直す動きだった可能性があります。
この視点に立つと、天武系王権は、外来文化を排除した王権ではありません。むしろ、外来文化を天皇中心の神話的秩序へ再配置した王権だったといえます。
天智系が百済系の制度知を通じて国家を作ろうとしたのに対し、天武系は海洋的な知識や祭祀的要素を、天皇の聖性へと統合した。そう考えると、天智と天武の違いは、「外来文化を受け入れるかどうか」ではなく、「外来文化をどのような王権理念に組み込むか」の違いだったことになります。
天武系王権の特徴は、飛鳥の伝統、伊勢の聖性、東国の軍事力、そして新羅系を含む海洋的ネットワークを統合し、それらを天皇中心の秩序として再編した点にあるのではないでしょうか。
このように見ると、天武天皇の勝利は、単に近江朝を倒した軍事的勝利ではありません。古代王権の正統性を、制度だけでなく、祭祀・神話・地域ネットワーク・海洋性によって再定義した出来事だったのです。
7. 天智系と天武系――百済系と新羅系の対比をどう考えるか
ここまで、天智系を百済系ネットワーク、天武系を新羅系を含む海洋ネットワークと結びつけて考えてきました。
ただし、この対比は慎重に扱う必要があります。
天智天皇が百済系、天武天皇が新羅系というように、単純に二分することはできません。古代王権のネットワークはもっと複雑です。百済系の人々が天武朝に関わることもあり得ますし、新羅系の人々や新羅的な情報が天智朝に入っていた可能性もあります。古代の政治は、現代の国民国家のように明確な境界で分けられるものではありません。
しかし、それでもなお、天智系と天武系の王権構想の違いを考えるうえで、百済系と新羅系という対比は有効な視点になります。
天智系王権は、白村江敗戦後の危機に対して、百済系渡来人の制度知や技術を取り込み、近江を拠点に外圧へ備える国家を作ろうとした。これは、百済滅亡の記憶を強く背負った国家構想だったといえます。
一方、天武系王権は、壬申の乱に勝利した後、飛鳥へ王権を戻し、神話的正統性と祭祀的秩序を強めました。その背景には、伊勢・美濃・東国を結ぶルート、日本海側や伊勢湾岸を含む海洋ネットワーク、そして百済後の新しい東アジア秩序への適応があった可能性があります。
つまり、天智系と天武系の違いは、百済か新羅かという単純な外交方針の違いではありません。
天智系は、百済系ネットワークを通じて「制度国家」を作ろうとした。天武系は、新羅系を含む広域ネットワークを背景に、「祭祀国家」あるいは「天皇中心の王権秩序」を作ろうとした。
この違いこそが、壬申の乱の本質に関わっているのではないでしょうか。
壬申の乱は、皇位継承をめぐる戦いであると同時に、古代日本がどのような国家になるのかを決める戦いでした。近江朝が勝っていれば、百済系の制度知を重視した、より国際危機対応型の国家が形成されたかもしれません。一方、実際には天武系が勝利し、飛鳥を中心に、神話・祭祀・皇親政治を軸とする天皇制国家の基盤が整えられていきました。
もちろん、天武系は天智系の制度改革を否定したわけではありません。むしろ、天智が進めた制度国家化の流れを受け継ぎながら、それを自らの祭祀的・神話的正統性のもとに再編しました。
その意味で、天武天皇の勝利は「百済系の否定」ではなく、「百済系の制度知を含む外来要素を、天皇中心の新しい王権構想へ再配置する勝利」だったと見ることができます。
そして、その再配置を可能にした背景に、伊勢・美濃・東国の軍事力、日本海側や伊勢湾岸の交通網、そして新羅系を含むもう一つの海洋ネットワークがあったのではないでしょうか。
天武天皇と新羅系ネットワークを考えることは、壬申の乱の勝敗を単なる軍事史として見るのではなく、古代日本の国家形成を、海を越えた交流と地域ネットワークの中で捉え直すことにつながります。
天智が百済系ネットワークを通じて近江朝を作ろうとしたように、天武もまた、飛鳥という伝統的中心に立ちながら、海と山と東国を結ぶ広域ネットワークを利用して新しい王権を作ったのかもしれません。
壬申の乱の勝利を支えたものは、単なる武力ではありませんでした。
そこには、東アジアの変動を読み替える力、地域ネットワークを動員する力、そして外来の知識や海洋的な交流を、天皇の聖性へと組み込む力がありました。
天武天皇の王権とは、飛鳥に戻った王権でありながら、同時に海へ開かれた王権でもあったのです。
そしてこの視点に立つと、次に考えるべきテーマが見えてきます。天智と天武は、本当に別々の王統だったのか。それとも同じ応神系の王統内部における、異なる母系・異なる豪族連合・異なる海洋ネットワークの争いだったのか。
その問いは、次の記事「天智と天武は異母兄弟だったのか――応神天皇の系譜から読み直す古代王権」へとつながっていきます。

