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古代史

天智天皇と百済系ネットワーク――近江朝を支えた渡来系勢力を考える

壬申の乱から読み直す古代王権――天智・天武・三種の神器をめぐる日本古代史の大仮説 壬申の乱は「王朝交代」だったのか――天智系と天武系をめぐる大きな仮説 https://www.learn.japan.by.im...

壬申の乱から読み直す古代王権――天智・天武・三種の神器をめぐる日本古代史の大仮説

1. なぜ天智天皇は近江に都を移したのか

天智天皇の政治を考えるうえで、最も重要な出来事の一つが、近江大津宮への遷都です。

それまでのヤマト王権の中心は、長く飛鳥にありました。飛鳥は、推古天皇以来の政治的記憶が積み重なった場所であり、蘇我氏、仏教文化、畿内豪族、古い王権祭祀が重なり合う土地でした。そこを離れて、琵琶湖の南西岸にあたる近江へ都を移したことは、単なる宮殿の移転ではありません。

むしろ、天智天皇が目指した王権の性格そのものを示す大きな選択だったと考えられます。

近江は、琵琶湖を中心とする水上交通の要地です。琵琶湖を通じて北陸、日本海方面、東国、畿内を結びつけることができ、内陸でありながら広域の交通網を管理できる場所でした。これは、飛鳥とはかなり性格が異なります。飛鳥が伝統的な王権の中心であったとすれば、近江は広域交通と軍事・行政を意識した新しい政治拠点だったといえます。

また、近江遷都は、白村江の戦い後の国際情勢とも関係していた可能性があります。

663年、倭国は百済復興を支援するために朝鮮半島へ出兵しました。しかし、唐・新羅連合軍に敗れ、大きな衝撃を受けます。この敗北によって、倭国の支配層は、東アジアの国際秩序が大きく変化していることを痛感したはずです。唐という巨大帝国、新羅による朝鮮半島統一の動き、百済の滅亡。こうした状況のなかで、倭国は自国の防衛体制と国家制度を急速に整える必要に迫られました。

このとき、天智天皇が飛鳥を離れて近江に都を置いたことは、従来の豪族連合的な政治から、より中央集権的で軍事・行政に強い国家へ移行しようとする意志の表れだったのではないでしょうか。

そして、その国家改造を支えた重要な存在こそ、百済系渡来人のネットワークだったと考えられます。

2. 白村江の敗北と百済系渡来人の流入

天智天皇の時代を理解するには、白村江の戦いを避けて通ることはできません。

百済は、倭国にとって非常に重要な国でした。仏教、文字、制度、技術、学問など、多くの文化が百済を通じて伝わったと考えられています。ヤマト王権にとって百済は、単なる外交相手ではなく、文化的・技術的・政治的に深く結びついた存在でした。

しかし、660年に百済は唐・新羅連合軍によって滅ぼされます。その後、百済復興運動が起こり、倭国はそれを支援するために軍を送りました。ところが663年、白村江で倭国・百済復興軍は唐・新羅軍に大敗します。

この敗北は、倭国にとって軍事的失敗であるだけでなく、東アジアにおける外交的敗北でもありました。倭国は、朝鮮半島における重要な足場を失い、唐や新羅の脅威を現実のものとして受け止めることになります。

この結果、百済の王族、貴族、官人、技術者、僧侶、知識人などが倭国へ渡ってきました。彼らは亡命者であると同時に、高度な知識と技術を持った人々でもありました。

ここで重要なのは、百済系渡来人を単に「外国から来た人々」と見るだけでは不十分だという点です。彼らは、すでに倭国の王権と深い関係を持っていた可能性が高く、渡来後も王権の中枢に関わる役割を担ったと考えられます。

百済系の人々は、文字による行政、外交文書、律令的な制度、仏教文化、土木技術、築城技術、軍事知識などを持っていました。白村江の敗北後、倭国が急速に防衛体制と国家制度を整えようとしたとき、彼らの知識は不可欠だったはずです。

つまり、百済の滅亡は倭国にとって大きな危機であると同時に、高度な国家運営の知識を持つ人々を国内に取り込む契機にもなりました。

天智天皇の近江朝は、この百済系渡来人の知識とネットワークを活用しながら、国家の再編を進めた政権だったのではないでしょうか。

3. 近江朝を支えた制度国家への志向

天智天皇の政治には、制度国家へ向かう強い志向が見られます。

もちろん、律令国家の完成は天武・持統朝以後の流れとして語られることが多いです。しかし、その前提となる国家整備は、天智朝においても進められていました。戸籍の整備、官制の整備、防衛体制の強化、城の築造などは、いずれも白村江敗戦後の危機意識と深く関係していると考えられます。

従来のヤマト王権は、有力豪族の連合体としての性格が強いものでした。大王は最高権威ではありましたが、各地の豪族はそれぞれ独自の基盤を持ち、王権はその調整役として機能していた面があります。

しかし、唐や新羅のような強力な国家と向き合うためには、従来型の豪族連合では不十分でした。兵力、税、戸籍、交通、外交、防衛をより一元的に管理する必要がありました。

このような国家改造を進めるには、文書行政と制度設計に通じた人々が必要です。百済系渡来人は、まさにその役割を担うことができる存在でした。

彼らは、東アジアの国際秩序を知っていました。唐の制度、新羅の動向、朝鮮半島の政治構造、外交文書の作法、仏教を通じた国際文化などを理解していた可能性があります。天智政権にとって、百済系渡来人は単なる技術者ではなく、国際社会を生き抜くための知恵を持つ政治的パートナーでもあったのです。

近江朝が目指した国家とは、こうした知識を活用した「制度による国家」だったのではないでしょうか。

この点で、天智天皇は非常に現実主義的な政治家だったように見えます。白村江の敗北によって、倭国は唐・新羅の軍事的圧力を受ける可能性を意識せざるを得なくなりました。その危機に対応するためには、王権を神話や伝統だけに支えるのではなく、制度、軍事、交通、外交によって強化する必要がありました。

近江遷都も、その一環として理解できます。

近江は、飛鳥の伝統的な政治空間とは違い、新しい国家運営に適した場所でした。琵琶湖を通じた交通、東国への連絡、日本海方面とのつながり、そして畿内との距離感。近江は、倭国をより広域的に支配するための拠点だったと考えることができます。

つまり、天智天皇の近江朝は、百済系渡来人の知識を取り込みながら、危機対応型の中央集権国家を作ろうとした政権だったのです。

4. 百済系ネットワークは「外来勢力」だったのか

ここで一つ注意したいのは、百済系ネットワークを単純に「外来勢力」として見るべきではないという点です。

古代の日本列島と朝鮮半島は、現代の国境感覚とはまったく異なる関係にありました。人、物、技術、信仰、婚姻、軍事、外交は、海を越えて頻繁に行き来していました。とくに倭国と百済の関係は深く、百済系の人々が倭国の王権と長く関わっていた可能性は高いです。

つまり、百済系渡来人は、突然外からやってきて政治に入り込んだ人々というより、もともと倭国の王権と結びついていた海峡ネットワークの一部だったと考えるべきです。

この視点に立つと、天智天皇が百済系の人々を重視したことは、不自然ではありません。むしろ、白村江の敗北によって百済という国家が消滅したあと、その知識と人材を倭国の国家形成に組み込むことは、非常に合理的な選択でした。

ただし、これには大きなリスクもありました。

百済系ネットワークを重視することは、国際的な知識や制度を得る一方で、国内の伝統的豪族や飛鳥を基盤とする勢力にとっては、王権の性格が大きく変わることを意味します。これまでの豪族連合的な政治に慣れた勢力にとって、文書行政や中央集権化、近江への政治中心の移動は、強い違和感を伴うものだったかもしれません。

また、百済系ネットワークの重視は、朝鮮半島情勢への深い関与を意味します。百済復興という政治的記憶を背負う人々を受け入れることは、唐や新羅との緊張を引き続き抱えることにもつながります。

天智政権は、こうしたリスクを承知のうえで、百済系ネットワークを国家形成に活用しようとしたのでしょう。

この点に、天智系王権の特徴があります。

天智系王権は、伝統的なヤマト王権の延長にありながら、同時に国際情勢に強く反応した政権でした。百済の滅亡、白村江の敗北、唐・新羅の圧力という現実に向き合い、そのなかで国家を作り替えようとしたのです。

したがって、百済系ネットワークは「外から来た異質な勢力」ではなく、天智政権が新しい国家構想を進めるために必要とした、海を越えた政治・技術・文化のネットワークだったと見るべきです。

5. 近江朝と飛鳥勢力の緊張

天智天皇の近江朝を考えるとき、飛鳥との関係は非常に重要です。

飛鳥は、それまでの王権の中心でした。そこには、古くからの豪族、寺院、政治的記憶、祭祀的な権威が集まっていました。飛鳥を離れて近江に都を置くということは、単に場所を移すだけではなく、王権の重心を動かすことを意味します。

この遷都によって、従来の飛鳥を中心とした政治勢力は、相対的に力を失った可能性があります。もちろん、すべての飛鳥勢力が天智政権に反発したとは限りません。しかし、近江朝が新しい政治拠点として整えられていくなかで、飛鳥の伝統的な勢力とのあいだに緊張が生じた可能性は十分にあります。

ここで重要なのが、大海人皇子、後の天武天皇の存在です。

大海人皇子は、天智天皇の弟とされ、天智政権の内部にいた人物です。しかし、天智の死後、彼は近江朝の中心に残るのではなく、吉野へ退きます。そして壬申の乱において、近江朝側と戦うことになります。

この流れを見ると、壬申の乱は単なる皇位継承争いではなく、近江朝が進めた政治路線に対する反動、あるいは別の王権構想の台頭として見ることができます。

近江朝は、百済系ネットワークを利用し、制度国家化を進め、飛鳥から離れた新しい政治中心を築こうとしました。それに対して、天武系王権は飛鳥へ回帰し、神話的正統性や祭祀的統合を強めていきます。

この対比は非常に興味深いです。

天智系が「近江・百済系・制度国家・国際対応」を重視したとすれば、天武系は「飛鳥・国内祭祀・皇親政治・神話的正統性」を重視したように見えます。

もちろん、天武系も制度国家化を進めたため、天智系の改革を完全に否定したわけではありません。しかし、その制度を何によって正当化するのか、どこを王権の中心に置くのかという点で、両者には大きな違いがあったと考えられます。

壬申の乱とは、近江朝の制度国家構想と、飛鳥を中心とする新たな天武系王権構想との衝突だったのかもしれません。

6. 天智系王権はなぜ敗れたのか

では、なぜ天智系の近江朝は壬申の乱で敗れたのでしょうか。

この問いに答えるのは簡単ではありません。軍事的な要因、指導力の差、東国勢力の動向、大友皇子の立場、豪族たちの判断など、複数の要因が絡み合っています。

しかし、仮説として考えるなら、近江朝の急進的な国家構想そのものが、十分な支持を得られなかった可能性があります。

天智政権が進めた国家改造は、必要性のあるものでした。白村江敗戦後、倭国が防衛体制を整え、中央集権化を進めることは避けられなかったでしょう。百済系渡来人の知識を取り入れることも、国際情勢を考えれば合理的でした。

しかし、合理的であることと、国内の諸勢力が納得することは別です。

飛鳥から近江への遷都は、伝統的な王権の中心を移す行為でした。百済系ネットワークの重視は、国内豪族にとって自分たちの立場が弱まるように見えたかもしれません。中央集権化は、地方豪族や有力氏族にとって、従来の自律性を奪われる方向に見えた可能性があります。

つまり、近江朝は国家としては先進的であった一方で、国内の政治的合意を十分に形成できなかったのかもしれません。

一方、大海人皇子は、吉野から出て伊勢・美濃方面へ進み、東国の兵力を結集しました。これは、天武系が近江朝とは異なる地域的支持を得ていたことを示しています。天武側は、単に飛鳥の伝統勢力に支えられただけでなく、東国を含む広域の軍事的支持を背景にしていました。

ここに、天智系と天武系の違いが見えてきます。

天智系は、百済系ネットワークと近江を基盤に、上から国家を整備しようとした。天武系は、飛鳥の正統性と東国の軍事力を結びつけ、別の形で王権を再構成した。

近江朝が敗れたのは、単に軍事的に弱かったからではなく、王権構想としての支持基盤が不安定だったからではないでしょうか。

もちろん、これは断定ではありません。しかし、壬申の乱を単なる戦場での勝敗ではなく、国家構想同士の競合として見ると、近江朝の敗北は非常に意味深いものになります。

7. 近江朝の遺産――天武・持統朝に受け継がれたもの

壬申の乱によって、天智系の近江朝は敗れました。しかし、近江朝の国家構想が完全に消えたわけではありません。

むしろ、天智天皇が進めた制度化・中央集権化・防衛体制の整備といった方向性は、天武・持統朝に受け継がれていきます。天武天皇は、天智の政治をすべて否定したのではありません。天智が進めた国家形成の土台を受け継ぎながら、それを自らの王権理念のもとで再編したのです。

この点が非常に重要です。

天智系王権と天武系王権は、対立しただけではありません。天智が制度国家への道を開き、天武がそれを神話的・祭祀的正統性のもとで統合した。そう考えると、壬申の乱後の古代国家は、天智と天武の両方の遺産によって形づくられたといえます。

天智の近江朝は敗れました。しかし、百済系ネットワークを通じて取り込まれた知識、文書行政、制度設計、国際感覚、防衛意識は、後の律令国家形成に不可欠な要素でした。

一方で、天武系王権は、それらを単に実務的制度として受け継ぐのではなく、天皇を中心とする神話的秩序のなかに組み込みました。ここに、日本古代国家の独自性があります。

唐や新羅の制度を意識しながらも、単なる模倣ではなく、天皇という祭祀的王権を中心に据えた国家を作っていく。その土台には、天智の制度国家構想と、天武の王権正統化の両方があったのです。

したがって、天智天皇と百済系ネットワークを考えることは、単に「近江朝を支えた渡来人」を考えることにとどまりません。それは、日本古代国家がどのように東アジアの国際秩序を受け止め、どのように自国の王権へ組み込んでいったのかを考えることでもあります。

天智天皇は、白村江敗戦後の危機のなかで、百済系渡来人の知識を取り込み、近江を拠点に新しい国家を作ろうとしました。その試みは、壬申の乱によって政治的には挫折します。しかし、その遺産は天武・持統朝に受け継がれ、後の律令国家形成の重要な基盤となっていきます。

近江朝は、敗れた王権でした。

しかし、敗れたからといって、歴史的に無意味だったわけではありません。むしろ、近江朝は、古代日本が制度国家へ向かううえで避けて通れない実験だったのです。

壬申の乱を通じて、天智系の近江朝は消えました。しかし、百済系ネットワークを通じて天智が取り込もうとした国際的知識と制度国家の発想は、形を変えて後の日本に残りました。

そう考えると、天智天皇と百済系ネットワークは、壬申の乱の敗者としてではなく、日本古代国家を準備した重要な力として捉えるべきでしょう。

そして次に問うべきなのは、その天智系に対抗した天武系が、どのようなネットワークを背景にしていたのかという問題です。天武天皇の勝利を支えたものは、飛鳥の伝統だけだったのでしょうか。それとも、そこには新羅系、伊勢、東国、日本海側を含む、もう一つの海洋ネットワークが存在していたのでしょうか。

この問いこそ、次の記事で考えるべき大きなテーマになります。

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