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壬申の乱から読み直す古代王権――天智・天武・三種の神器をめぐる日本古代史の大仮説④
1. 天智と天武の関係をどう見るか
壬申の乱を考えるうえで、避けて通れない問題があります。
それは、天智天皇と天武天皇の関係です。
一般的には、天智天皇と天武天皇は兄弟であったとされています。天智天皇は中大兄皇子、天武天皇は大海人皇子として知られ、ともに舒明天皇と皇極天皇、後の斉明天皇に関わる王統の人物として語られます。そのため、壬申の乱は、天智天皇の子である大友皇子と、天智天皇の弟である大海人皇子との皇位継承争いとして説明されます。
この理解は、基本的な歴史叙述としてはよく知られています。しかし、壬申の乱を単なる「叔父と甥の争い」として見るだけでは、そこに含まれていた王権構想の違いを十分に説明できません。
なぜなら、壬申の乱の前後で、王権の中心、重視される地域、渡来系ネットワーク、祭祀のあり方、豪族との関係が大きく変わるからです。
天智天皇の近江朝は、白村江敗戦後の危機を背景に、百済系渡来人の知識や制度を活用しながら、近江を拠点にした制度国家を目指したように見えます。一方、天武天皇は、壬申の乱に勝利した後、飛鳥を中心に王権を再構成し、神話的正統性や神祇祭祀を強化していきました。
つまり、天智と天武は単に兄弟であったというだけでなく、異なる政治的背景を持つ二つの系統として見ることもできるのです。
ここで一つの仮説が生まれます。
天智と天武は、本当に同じ王統の単純な兄弟だったのでしょうか。同じ父系の王統に属しながらも、母系や婚姻関係、支持豪族、渡来系ネットワークが異なる「異母兄弟的な二つの系統」だったのではないでしょうか。
もちろん、史書に記された系譜を無視して、二人がまったく別の王朝の人物だったと断定することはできません。しかし、古代王権においては、父系だけでなく母系が非常に大きな意味を持ちました。王位継承や政治的支持は、父の血筋だけで決まるものではなく、母方の出自、外戚、婚姻関係、背後の豪族連合によって大きく左右されました。
この視点に立つと、天智と天武の対立は、同じ王統内部における単なる個人間の争いではなく、母系と支持勢力の異なる二つの王権構想の衝突だった可能性が見えてきます。
そして、その二つの王権構想をつなぐ大きな鍵として浮かび上がるのが、応神天皇の系譜です。
2. 応神天皇とは何者だったのか
応神天皇は、古代王権を考えるうえで非常に重要な存在です。
応神天皇は、記紀において第15代天皇とされ、神功皇后の子として語られます。歴史学的には、応神天皇の実在性やその時代の位置づけについて多くの議論がありますが、少なくとも古代王権の正統性を語るうえで、応神という存在が特別な意味を持っていたことは間違いありません。
応神天皇には、いくつもの重要な性格が重なっています。
第一に、応神天皇は河内王権との関係で語られることが多い存在です。巨大古墳の時代、河内平野に強力な王権が形成されたと考えられており、応神・仁徳の時代はその中心に位置づけられることがあります。つまり、応神はヤマト王権が大きく拡大し、列島規模の王権へ成長していく過程と深く関わる存在です。
第二に、応神天皇は渡来系文化とも関係づけられます。応神朝には、百済や朝鮮半島からの文化・技術・人々の渡来が語られます。文字、技術、学問、機織り、鍛冶、土木、馬、軍事など、さまざまな外来文化が王権の発展に結びつけられる時代です。
第三に、応神天皇は八幡信仰とも結びつきます。後世、応神天皇は八幡神として信仰され、武家や国家の守護神として大きな意味を持つようになります。これは後世の展開ではありますが、応神が王権の軍事的・守護的な性格と結びつけられたことを示しています。
このように、応神天皇は、河内王権、渡来系文化、軍事的性格、広域支配、王権の聖性といった複数の要素を背負う存在でした。
だからこそ、後の王統が自らの正統性を語るとき、応神の系譜を重視した可能性があります。天智系と天武系もまた、完全に断絶した別王朝というより、応神以来の王権の正統性を共有しつつ、その中で異なる分岐を担った系統だったのではないでしょうか。
この仮説に立つと、壬申の乱は「応神王統の内部における主導権争い」として見えてきます。
すなわち、天智系は応神王統のうち、百済系・近江系・制度国家的な方向を強めた系統であり、天武系は応神王統のうち、飛鳥・伊勢・祭祀的正統性・広域海洋ネットワークを強めた系統だったのではないか、という見方です。
3. 古代王権における母系の重要性
天智と天武の関係を考えるとき、父系だけでなく母系を見ることが重要です。
現代の感覚では、王統や家系というと父方の血筋を中心に考えがちです。しかし、古代王権においては、母方の出自や外戚関係が非常に大きな力を持っていました。天皇の子であることだけではなく、誰を母に持つのか、母方にどの豪族がいるのか、どの地域勢力と結びついているのかが、政治的な正統性や支持基盤を左右しました。
これは古代日本だけでなく、広く古代社会に見られる構造です。王子たちは同じ父を持っていても、母が異なれば背後にいる豪族や地域勢力が違います。そのため、兄弟であっても政治的には別勢力の代表者となることがありました。
天智と天武を異母兄弟的に考えるという仮説は、この点から意味を持ちます。
もちろん、記紀が伝える系譜をそのまま否定する必要はありません。しかし、二人が同じ王統に属していたとしても、それぞれの母系的背景や婚姻関係、支持した豪族が異なっていたなら、壬申の乱は「同じ家の中の争い」であると同時に、「異なる外戚・異なる豪族連合の争い」でもあったと考えられます。
この視点に立つと、天智系と天武系の違いが見えやすくなります。
天智系は、近江を拠点とし、百済系渡来人の知識を取り込み、制度国家を目指したように見えます。その背景には、白村江敗戦後の百済系ネットワーク、近江の交通拠点性、中央集権化を進める官僚的な発想がありました。
一方、天武系は、飛鳥へ回帰し、伊勢・美濃・東国のルートを使って壬申の乱に勝利し、神話的・祭祀的な王権を整備していきました。その背景には、飛鳥の王権伝統、伊勢の聖性、東国の軍事力、そして新羅系を含む広域の海洋ネットワークがあった可能性があります。
この違いは、単なる政策の違いではありません。王権をどのような力で支えるのか、どの地域を重視するのか、どの渡来系ネットワークと結びつくのかという根本的な違いです。
もし天智と天武が異母兄弟的な関係にあったとすれば、それぞれの母方が異なる政治的・地域的背景を持っていた可能性があります。天智系の背後には百済系・近江系の色彩があり、天武系の背後には飛鳥・伊勢・新羅系海洋ネットワークの色彩があった。そう考えると、壬申の乱は単なる個人の権力闘争ではなく、母系を通じた二つの王権グループの衝突として理解できます。
古代王権は、父の血だけでは動きません。
むしろ、母を通じて結びつく豪族、地域、渡来系集団こそが、王子を政治的存在にしていたのです。
4. 天智系と天武系は、応神王統の別分岐だったのか
ここで、応神天皇の系譜という視点をもう少し深く考えてみます。
応神天皇は、古代王権の中でも特に広域的な性格を持つ存在です。河内王権、渡来系文化、軍事力、巨大古墳、八幡信仰など、さまざまな要素が応神の周辺に集まっています。これは、応神が単なる一人の天皇というより、古代王権の大きな転換を象徴する存在だったことを示しているように思えます。
もし天智系と天武系が、いずれも応神王統の正統性を必要としていたとすれば、両者は完全に別々の王朝ではありません。むしろ、応神以来の王権の中に存在した複数の分岐のうち、どちらが次の時代の中心になるかを争ったのだと見ることができます。
この見方は、壬申の乱を理解するうえで非常に有効です。
なぜなら、壬申の乱後に天武系王権が強く打ち出したのは、王権の完全な断絶ではなく、むしろより強い正統性の再構築だったからです。天武天皇は、自分がまったく新しい王朝を開いたというより、古来の王権の正統な継承者であることを示す必要がありました。
そのためには、応神以来の王統、あるいはさらに神話的な天孫降臨の系譜まで含めた、長い正統性の物語が必要になります。
天武・持統朝において、神話と歴史を整理し、天皇を中心とする国家の正統性を構築していく動きが強まるのは、この点と関係している可能性があります。壬申の乱によって勝利した天武系は、単に軍事的に勝っただけでは不十分でした。自らの勝利が正当であり、王権の本来の流れが天武系にあることを示さなければならなかったのです。
ここで応神王統の記憶が重要になります。
応神は、渡来系文化を受け入れ、広域王権を形成し、軍事的権威を持つ存在として語られます。天智系が百済系ネットワークを重視したことも、天武系が新羅系を含む海洋ネットワークに開かれていた可能性も、実は応神的な王権の性格の異なる展開だったと考えることができます。
つまり、天智系と天武系は、どちらも応神王統の一部でした。ただし、天智系は応神王統の「渡来系制度国家」の面を強め、天武系は応神王統の「祭祀的・軍事的・広域統合」の面を強めたのではないでしょうか。
このように考えると、壬申の乱は王朝の断絶ではなく、応神王統の内部でどの要素を中心に据えるかをめぐる争いだったと見ることができます。
5. なぜ天武系は神話的正統性を強めたのか
天武天皇の王権には、神話的・祭祀的な性格が強く見られます。
天皇号の確立、八色の姓、皇親政治、神祇祭祀の整備、歴史編纂へとつながる動きは、いずれも王権の正統性を強めるための政策として見ることができます。これは、壬申の乱で勝利した天武系にとって、非常に重要な意味を持っていたはずです。
なぜなら、天武天皇は軍事的勝者ではあっても、形式的には天智天皇の子である大友皇子を倒した存在だからです。勝利した後、自らの即位を正当化するには、「なぜ大友皇子ではなく大海人皇子こそが正統なのか」を説明する必要がありました。
このとき、単なる武力の勝利だけでは十分ではありません。むしろ、天武系王権は、自らが古代王権の本来的な正統性を継ぐ存在であることを示す必要があったのです。
そのために有効だったのが、神話と系譜の再構成でした。
神話は、王権を単なる人間同士の権力争いから切り離し、神々から続く秩序の中に位置づけます。系譜は、現在の王が過去の正統な王たちと連続していることを示します。祭祀は、王が神々と人々を結ぶ中心であることを具体的に示します。
天武系王権がこれらを重視したのは、壬申の乱の勝利を単なる軍事的勝利ではなく、正統な王権の回復として語るためだった可能性があります。
ここでも、応神天皇の系譜は重要です。
応神は、神功皇后の物語、渡来文化、軍事的権威、広域王権と結びついた存在です。その応神の系譜を通じて王権の正統性を語ることは、天武系にとって、自らの王権が古代の強力な王統に連なることを示す手段になったと考えられます。
また、天武系が伊勢を重視した可能性も、この流れの中で理解できます。伊勢は、後に皇室祭祀の中心として大きな意味を持つ場所です。もし天武・持統朝が伊勢の祭祀的権威を王権の中心に組み込んだとすれば、それは天武系の正統性を神話的に強化する重要な政策だったと見ることができます。
つまり、天武系王権の神話的正統性の強化は、単なる宗教政策ではありませんでした。それは、壬申の乱によって成立した王権が、自らを正統な王権として位置づけるための政治的・思想的な作業だったのです。
6. 異母兄弟仮説から見える壬申の乱の意味
天智と天武を異母兄弟的な二つの系統として見ると、壬申の乱の意味は大きく変わります。
通常、壬申の乱は、天智天皇の死後に起きた皇位継承争いとして説明されます。もちろん、それは事実の一面です。しかし、異母兄弟仮説に立つと、この戦いは単なる皇位の奪い合いではなく、母系・外戚・地域・渡来系ネットワークの異なる二つの王権グループの衝突として見えてきます。
天智系は、近江を拠点に、百済系渡来人の制度知を取り込み、白村江後の危機に対応する中央集権国家を作ろうとしました。その背後には、百済系ネットワーク、近江の交通拠点性、国際危機への対応という要素がありました。
天武系は、飛鳥へ回帰しつつ、伊勢・美濃・東国のルートを利用して壬申の乱に勝利しました。その背後には、飛鳥の王権伝統、伊勢の祭祀的権威、東国の軍事力、新羅系を含むもう一つの海洋ネットワークがあった可能性があります。
この二つは、どちらも外来文化や広域ネットワークを利用していました。しかし、その使い方が違いました。
天智系は、外来の制度知を使って国家を上から整えようとした。天武系は、外来性や広域ネットワークを神話的・祭祀的な王権秩序へ組み込み直そうとした。
この違いこそが、壬申の乱の本質だったのではないでしょうか。
もしそうであれば、壬申の乱は「王朝交代」ではなく、「応神王統内部の主導権交代」と呼ぶべきかもしれません。血統が完全に断絶したわけではない。しかし、どの母系、どの豪族連合、どの地域ネットワークが王権の中心になるかは大きく変わった。
つまり、壬申の乱は、同じ王統の中で別の枝が主導権を握った事件だった可能性があります。
この視点に立つと、天智と天武は完全な敵対者ではありません。両者は同じ古代王権の中にありながら、その未来を異なる方向へ導こうとした存在でした。
天智は、近江と百済系制度知によって国家を作ろうとした。天武は、飛鳥と祭祀的正統性によって国家を再構成しようとした。
そして、どちらも応神以来の王権の遺産を必要としていた。
このように考えると、壬申の乱は「兄弟喧嘩」ではなく、「古代王権の正統性をどの系統が継ぐのか」をめぐる巨大な政治的・宗教的闘争だったことになります。
7. 応神王統から古代国家を読み直す
天智と天武を応神天皇の系譜から読み直すと、古代王権の姿はより立体的に見えてきます。
応神天皇は、古代王権の中で、渡来系文化、軍事力、広域支配、河内王権、王権の聖性を結びつける存在でした。天智系と天武系は、その応神的な王権の異なる側面をそれぞれ引き継いだ可能性があります。
天智系は、応神的王権のうち、渡来系文化と制度国家化の側面を強く受け継いだ。百済系渡来人の知識を取り込み、近江を拠点に、国際情勢に対応する国家を作ろうとしたからです。
一方、天武系は、応神的王権のうち、軍事的統合、祭祀的正統性、広域ネットワークの側面を強く受け継いだ。伊勢・美濃・東国を動員して勝利し、その後、天皇を中心とする神話的秩序を整えたからです。
この二つは対立していましたが、同時に補完関係にもありました。
実際、壬申の乱に勝利した天武系王権は、天智の制度国家化の流れを完全に否定したわけではありません。むしろ、天智が進めた中央集権化や制度整備の方向性を受け継ぎながら、それを天武系の神話的正統性のもとで再編しました。
その結果、天智の制度国家構想と、天武の祭祀的王権構想が結びつき、後の律令国家へとつながっていきます。
この意味で、壬申の乱は単なる勝者と敗者の物語ではありません。天智系の遺産と天武系の構想が、対立を経て結合し、日本古代国家の基盤を作っていった過程として見ることができます。
天智と天武は異母兄弟だったのか。
この問いに対して、史料上、明確に断定することはできません。しかし、二人を「同じ父系王統に属しながら、異なる母系・外戚・地域ネットワークを背負った二つの系統」として見ることは、壬申の乱の意味を深く理解するうえで非常に有効です。
そして、その二つの系統をつなぐ大きな王統的記憶として、応神天皇の存在を置いてみると、天智系と天武系は完全に断絶した二つの王朝ではなく、応神王統内部の異なる分岐だった可能性が見えてきます。
壬申の乱とは、その分岐のうち、どちらが次の時代の王権を担うのかを決めた戦いだった。
そう考えると、天智と天武の対立は、単なる皇位継承争いを超えて、日本古代国家の方向性そのものを決定した出来事として浮かび上がります。
そして次に考えるべきテーマは、近江・丹波・丹後・伊勢を結ぶ古代ネットワークです。
天智系の近江と、天武系の伊勢。さらにその背後にある丹波・丹後、日本海側、そしてトヨの記憶。これらの地域をつなげて見ることで、天智系と天武系は本当に対立していたのか、それとも同じ海洋王権の異なる表情だったのかという、さらに深い問いが見えてくるのです。

