百敷や 古き軒端の しのぶにも
なほあまりある 昔なりけり順徳院
読み方:
ももしきや ふるきのきばの しのぶにも
なほあまりある むかしなりけり
小倉百人一首の最後、100番に置かれている順徳院の歌です。
宮中の古びた軒端に生える「しのぶ草」を目にして、どれだけ思い返しても思い尽くせない昔への思いを詠んでいます。
華やかな宮廷そのものではなく、「古い軒」と、そこに生える小さな草から過去を見つめる歌です。
国際日本文化研究センターの和歌データベースでは、『続後撰和歌集』巻十八・雑下の1205番として、順徳院の歌であることが確認できます。
「百敷や」の意味
この歌を一言でいうと、
古びた宮中の軒端に生えるしのぶ草を見て、どれほど偲んでも偲び尽くせない昔を懐かしむ歌
です。
ポイントになるのは「しのぶ」です。
軒端に生える植物であるしのぶ草と、過ぎ去った昔を偲ぶ心が重なっています。
全日本かるた協会も、
「宮中の古い軒端に生えているしのぶ草を見るにつけ、やはりしのび尽くせぬ昔であったよ」
という趣旨で現代語訳しています。
現代語訳
宮中の古びた軒端に生えているしのぶ草を見るにつけても、やはり、どれほど偲んでも偲び尽くすことのできない昔であったことよ。
もう少し自然な言葉にすると、
「古くなった宮中の軒先に生える草を見ていると、昔のことが次々と思い出される。どれだけ懐かしんでも、まだ思いは尽きない。」
という感覚です。
ここで重要なのは、原歌そのものには「鎌倉幕府」「政治」「朝廷の衰退」といった言葉は出てこないことです。
直接描かれているのは、
古い宮中の軒端
→ しのぶ草
→ 尽きない昔への思い
という流れです。
政治的な意味をどこまで読み込むかは、その次の「解釈」の段階になります。
「百敷や」を一語ずつ読む
百敷(ももしき)
「百敷」は、宮中・内裏を指す雅語です。
全日本かるた協会の解説では、もともと「大宮」などにかかる枕詞として使われた語で、古くから宮廷を表す言葉として用いられてきたことが説明されています。
冒頭の、
百敷や
という短い句だけで、歌の舞台が宮中へと定まります。
「や」は詠嘆を伴う表現で、
「ああ、この宮中よ」
と、視線を宮中へ向けるような響きがあります。
古き軒端
「軒端」は屋根の端、つまり軒先です。
ここで順徳院が描いているのは、壮麗な御殿でも華やかな儀式でもありません。
古くなった軒端
です。
「古き」という一語によって、現在の宮中と、かつての宮中との間に長い時間が流れていることが感じられます。
しのぶにも
この歌の中心となる言葉です。
「しのぶ」は、軒端などに生える植物の「しのぶ」と、昔を懐かしく思い出す「偲ぶ」を重ねた表現として一般に解されています。
全日本かるた協会の解説も、このしのぶ草から昔を「しのぶ」という連想を読み取っています。
植物学的にも、この歌の「しのぶ」はノキシノブを指すとされることがあり、兵庫県立人と自然の博物館の研究資料でも、百人一首100番の「しのぶ」とノキシノブとの関係が紹介されています。
つまり、
目に見える草
と、
目には見えない記憶
が、「しのぶ」という一語でつながっているのです。
なほあまりある
「あまりある」は、
それでもなお、余るほどある
という意味です。
昔を偲んでいる。
しかし、いくら偲んでも思いは尽きない。
だから、
なほあまりある
なのです。
単なる「懐かしい」という気持ちより、はるかに強い表現です。
昔なりけり
最後の「けり」は、ここでは詠嘆を帯びます。
「ああ、あれはもう昔なのだなあ」
という余韻です。
歌は「百敷」という宮中から始まり、
最後には、
「昔」
という巨大な時間へ開かれて終わります。
この歌の最大の魅力――「現在」から「過去」へ一瞬で移る
この歌を整理すると、とても美しい流れが見えてきます。
まず、現在目の前にあるものがあります。
古い軒端。
そこに生えている、
しのぶ草。
その草の名前をきっかけに、
昔を偲ぶ心
へと移ります。
そして、その昔は、いくら思い出しても、
「なほあまりある」
ほど大きい。
つまり、
現在の景色
→ 一枚の草
→ 記憶
→ 過去全体
へと、わずか三十一音の中で視野が広がっていくのです。
作者・順徳院とは
順徳院は、第84代天皇である順徳天皇です。
宮内庁は、第84代順徳天皇の父を後鳥羽天皇、母を修明門院藤原重子としています。
順徳天皇は1197年生まれで、1210年に即位しました。
そして1221年、承久の乱に関わったのち佐渡へ配流されます。佐渡市の文化財解説では、承久3年(1221)4月に退位し、同年5月に承久の乱、7月に佐渡へ配流されたと説明されています。
その後、順徳院は佐渡で長い年月を過ごし、1242年に亡くなりました。
したがってこの歌を読むとき、
「後に佐渡へ流される天皇の歌」
という歴史を知っている私たちは、どうしてもその後の人生を重ねたくなります。
ただし、ここには注意が必要です。
この歌を「佐渡から都を懐かしんだ歌」としてはいけない
この歌について、
「佐渡へ流された順徳院が、京都を懐かしんで詠んだ」
という説明を見かけることがあります。
しかし、全日本かるた協会は、この歌を1216年、順徳院20歳の時の述懐歌と説明しています。承久の乱は1221年ですから、この説明に従えば、佐渡配流より約5年前の歌です。
したがって、
「佐渡から京都を思って詠んだ歌」
という説明は適切ではありません。
出典は『続後撰和歌集』雑下・1205番
この歌の出典は『続後撰和歌集』です。
国際日本文化研究センターの和歌データベースでは、
巻十八・雑下
1205番
順徳院
として、
ももしきや
ふるきのきはの
しのふにも
なほあまりある
むかしなりけり
と収録されています。
『続後撰和歌集』は二十巻からなる勅撰和歌集で、文化庁によると、後嵯峨院の命を受けた藤原為家が建長3年(1251)に撰進しました。
さらに、建長7年(1255)に為家自身が書写した本が現存しており、重要文化財に指定されています。
つまり、順徳院のこの歌は、後世の百人一首だけに残った歌ではなく、鎌倉時代の勅撰和歌集にも正式に採られている歌なのです。
「昔」とは何を意味するのか
では順徳院のいう、
昔
とは、具体的にいつなのでしょうか。
ここは断定できません。
一般的な百人一首の解説では、
朝廷や宮廷文化がより栄えていた時代
と解釈されることが多く、鎌倉幕府成立後の政治状況と結びつけて読む説明も広く見られます。
全日本かるた協会の解説でも、朝廷の権威や機能が次第に失われていく状況を背景として、この歌を解釈しています。
ただし、歌そのものには、
「鎌倉幕府に権力を奪われた」
とは書かれていません。
したがって、
確認できる事実
順徳院は「古き軒端」「しのぶ」「昔」を詠んでいます。
一般的な解釈
古びた宮中から、かつての宮廷・朝廷の栄華を偲んでいると解釈されます。
さらに踏み込んだ歴史的解釈
幕府の台頭による朝廷の政治的・社会的な変化まで重ねて読むことができます。
なぜ百人一首の最後がこの歌なのか
この歌は百人一首の100番です。
そして直前の99番は、
人もをし 人もうらめし あぢきなく
世を思ふゆゑに もの思ふ身は
という後鳥羽院の歌です。
後鳥羽院は順徳院の父です。宮内庁でも、この父子関係は確認できます。
つまり百人一首は、
99番 後鳥羽院
100番 順徳院
という父子で終わります。
しかも二人は、ともに承久の乱後に京都を離れることになりました。
このため、
「藤原定家は、王朝文化の終焉を象徴するために二人を最後に置いたのではないか」
という読み方があります。
非常に魅力的な解釈です。
しかし、ここも断定はできません。
今回確認した資料の範囲では、
「私は王朝文化の終焉を表現するため99・100番をこの二人にした」
と藤原定家自身が説明した史料は確認できませんでした。
【考察】百人一首100番で本当に失われたものは何か
ここからは、この歌の本文をもとにした考察です。
この歌には、
滅びる
という言葉はありません。
幕府
という言葉もありません。
悲しい
とも言っていません。
あるのは、
古き
しのぶ
昔
です。
つまり順徳院が真正面から詠んだものは、
政治制度そのものではなく、
時間によって失われてしまったものへの感覚
なのではないでしょうか。
昔はそこにあった。
今も場所そのものは残っている。
しかし同じ景色ではない。
古びた軒に草が生えている。
その草を見ると、かつての姿が思い出される。
この経験は、鎌倉時代の天皇だけのものではありません。
久しぶりに母校を訪れたとき。
昔住んでいた町を歩いたとき。
子どものころ遊んだ場所が変わっていたとき。
私たちは、現在の風景を見ながら、
そこにもう存在しない過去
を見ることがあります。
「百敷や」が800年以上たっても理解できるのは、政治史を超えて、そうした普遍的な時間の感覚が歌われているからなのかもしれません。
これは順徳院本人の意図として確認できるものではなく、歌の表現から広げた一つの読み方です。
AIで「百敷や」の情景を表現するなら
この歌をAIで画像化してみました。

まとめ|百人一首100番「百敷や」とは
百敷や 古き軒端の しのぶにも
なほあまりある 昔なりけり
は、
宮中の古い軒端に生えるしのぶ草をきっかけに、偲んでも偲び尽くせない昔への思いを詠んだ歌
です。
「しのぶ草」と「昔を偲ぶ」心が重なり、目の前の小さな景色から巨大な過去へと歌が広がっていきます。
作者の順徳院は後鳥羽院の皇子で、第84代天皇でした。その後、承久の乱を経て佐渡へ配流されます。
しかし、この歌をただ「承久の乱の悲劇を詠んだ歌」として読むのは単純すぎます。
原歌そのものが語っているのは、
古びた宮中と、尽きることのない昔への思い
です。
百人一首100首の最後が、
昔なりけり
という言葉で閉じられる。
それは、100首を読み終えた私たちまで、過ぎ去った時代を振り返らせるような、不思議な余韻を持っています。
参考資料
本文・歌番号・部立については、国際日本文化研究センター「和歌データベース」で『続後撰集』巻十八・雑下1205番を確認しました。
『続後撰和歌集』の成立・撰者については文化庁「国指定文化財等データベース」を参照しました。藤原為家が後嵯峨院の命で1251年に撰進したこと、1255年書写の為家自筆本が現存することが確認できます。
現代語訳・1216年説・歌の基本解釈については、全日本かるた協会「小倉百人一首フェスティバル2020」の100番解説を参照しました。
順徳天皇の系譜については宮内庁、承久の乱後の佐渡配流については佐渡市文化財情報を参照しました。

